本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

ホーソーン「緋文字」 翻訳:八木敏雄

とあるモチーフがある話

古典を読むことの面白さは、時代がかわっても変わらない人間の普遍的な何かに気がつかされるあたりだと思います。今作、出版されたのが1850年ですが――、著者ホーソーンが描いたのは1650年ころのアメリカについて。1650年頃(17世紀半ば)と言えばイギリスからの入植者達がアメリカに根をおろしてから50年程度が経過したころの話になります。
今作の構成ですが――、まず現在(19世紀)からスタートして過去(17世紀)を振り返り、また現在(19世紀)に戻ってくるという流れです。というのも冒頭で著者であるホーソーンが、勤めていた税関の二階でホコリを被った「緋文字」の記録を見つけてしまうところから物語は始まります――、ホーソーンには作家となる以前に税関で働いていたという事実があり、この話がまるで自身の経験にもとづくものだと言わんばかりの展開で話は始まるのです。もちろんこれには意味があり――、実は今作は1693年に起こった「セイラムの魔女裁判(200人近い村人が魔女として告発され、25名が亡くなっている)」をモチーフにして、著者はこのフィクションを作りあげているのです。この小説を通してあの事件を起こしたのは何が原因だったのか問いなおす意味があるのだと思われます。というのもホーソーンの先祖には敬虔な清教徒として歴史に名を残すような人物がいたようで、その血を受け継いでいる著者だからこそ今作を書いたのではないかと考えられます。

 

胸に緋色の「A」の字を飾った女

タイトル「緋文字」とは――、金の刺繍に縁取られた緋色の「A」の文字です。
赤ん坊を抱えたヘスター・プリンの胸に貼りつけられた「A」の文字。彼女は姦通の罪によってさらし台の上で見世物にされている。この時期(17世紀半ば)の清教徒の文化では姦通は死をもってあがなわなければならなかった。ただしこの時、ヘスターの夫は死んでいるとの報告があった。だからそこまでの必要はないとされ、三時間のあいだ人々にさらされ辱めを受けること――、そして生涯に渡り「緋文字」を胸につけることを約束されヘスターの罪は許された(ただし許されたとは言え「A」の文字をつけている以上、どこに行っても指をさされ笑い者にされることは目に見えていた)。
人々の興味は相手が誰か? ということだった。しかしヘスターの口は固かった。何があっても言うことは出来ないと、ヘスターは頑なに相手を告げることを拒みつづける。相手の立場を考慮してヘスターは一人でその罪を被ろうとした……
しかし、ひとりの男が冷ややかな目でこの刑罰の様子を眺めていた。老医師チリングワース――、実は彼こそが死んだとされているヘスターの夫である(補足:ヘスターは彼より先に渡米している。チリングワースは仕事の関係上遅れてアメリカにやってくる予定になっていた。そして今まさにこの地にやってきたところなのである)。
その後ヘスターが独りになったところを見計らってチリングワースは彼女の目の前に姿を現した――、彼は言う「私が夫だということを誰にも言うな! お前の浮気相手が誰なのか必ずつきとめてやる」と。
チリングワースはすぐに町の人々に認められることになった。この時期、医師という職業はそれだけで尊敬に値したのかもしれない。チリングワースはこの町の牧師と一緒に住むこととなり、病弱な牧師の面倒を任されることになるのです……

 

登場人物の役割

勘のいい方ならお気づきかもしれませんが、姦通の相手とはこの病弱な牧師です。ただし、へスターとどういう経緯で不倫に陥ったのかはよく解りません。燃えるような恋が芽生えたとか、どうしようもなく互いが惹かれあったとか――、そんなエピソードはないんです。
なので読んでいる最中には「悪いのはヘスターと牧師ではないか」「チリングワースこそ被害者ではないか」と思ってしまいます。しかしその後のヘスターのつつしみ深さ、遠慮ぶかく控え目な態度、自分が蔑まれているにも関わらず弱きものを助けようとする姿、それからひたすらに耐えている姿を見ていると、彼女は悪人とは思えない……
一方、チリングワースはと言うと――、ヘビのようにねちっこく、人の不幸をもてあそび、自分が切り札をもっていることで優越感を味わっている人物――、俺が曝露してしまえばすべてが元の木阿弥だとばかりにヘスターを脅すんです。ヘスターとの間に何があったのか? チリングワースはどのような夫だったのか? それらも今作では語られません。ただ描写としてあるのはヘスターは「チリングワースに騙された」という意識を持っていること。過去は詳しくは解りませんがアメリカに来てからのチリングワースを見ていると確かにコイツは嫌な奴なんだろうなぁという感じです。
次に牧師はというと、これまた絶妙な人物です。彼は弱い。体も弱ければ精神的にも弱い。しかし敬虔であることに懸けては誰にも引けをとらなかった。牧神の神に対する真摯な態度は人々に認められていた。皮肉にも病弱さが人々に彼を支持をさせた。人々の目には病弱な体を押して教えを諭す姿が健気に映っていたのだと思う。まあ……、なんとなくつつしみ深いへスターが惹かれたのは解るようなタイプ。これが不倫でなければお似合いの二人と言えるかもしれない(牧師は姦通の罪をへスターひとりになすりつけているではないか! と思われるかもしれませんが、その件に関しては後述します)。
もう一人重要な人物がいます。へスターの娘のパール。牧師との間に生まれた子供です(パール自身は大きくなってからも、その事実を知りません)。パールはへスターの子供ということで斜めに見られた。人々に避けられたり、いじめられたりしながら成長していった。ただしパールには天真爛漫なところがあって、それらを意に介さないところはあった。それにも増してヘスターの愛情がパールをくるんでいたことでパールはパールの基質を損なわずに育っていったのだと思う。ただしパールの鋭い感性はヘスターや牧師の心のなかに抱えている闇を見逃さなかった。口をにごすヘスターや牧師に向かってパールは子供ながらの純粋さで核心をつくようなことを言う――、それが二人を苦しめるという役割を果たしている(後押しをする役割とも言えるし、ハラハラドキドキ要因とも言える)。

 

人は真実を見るのか、それとも

表の世界ではヘスターは責められ苦しみ続ける(その後、さらし者としての人生を歩まされる)。しかしヘスターにはパールという希望いた。だから全てを耐えることができたのだと思います。一方、裏側ではもう一人の罪人である牧師が苦しみ続けている。牧師はヘスターのおかげでさらし者にされることは免れたわけですが、その事実が彼の精神を苛み続ける。ヘスターが責められるほどに、良心の呵責を感じることとなる。自らの過ちをひとりの女性に押しつけている事実――、自分の弱さというものを否が応でも見せつけられることになる。さらには牧師という職業が彼を苦しめた。自分の罪を認めることすら出来ないと言うのに、人々には懺悔を促さなければならなかった。そして影で牧師を苦しめる原因がもうひとつある――、チリングワース。病弱の自分の面倒を見ている医師はすべてを知っている(牧師はそのことを知らない)。牧師は何故だか分からないまま冷酷な視線を浴び続けているのです。
どちらが本当の不幸か……、それは分かりませんが、ヘスターは強く牧師は人として弱かったということは言えるかもしれない。というのも牧師は次第に耐えられなくなっていく。耐えられなくなりすべてを白日のもとにさらすことを望み始める。ヘスターのように希望(パール)がない牧師には、それが希望になるのでは? という思いに捉われる。そして後日、運命の日(牧師の懺悔の日)を向かえることになる。
この作品の凄さは牧師の懺悔というだけでは終わらない(ただし牧師は明確にヘスターの相手が自分であるとは言わなかった。自分は罪人であるという含みを民衆に伝えたに過ぎない。そして倒れていった)。牧師は確かにその瞬間、恍惚とし何かから解放されたのかもしれない――、ただしここで著者が描くのは一個人の物語ではない。視点は大きく引いていき今度は民衆の目線に変わっていく。人々は牧師の懺悔をどう見たのか? その瞬間、牧師の胸に「A」の文字が見えたという人達がいた。「A」の文字などなくまっさらな肉体だったという人達がいた。人を救うことが使命の牧師故にヘスターの替わりに罪を背負おうとしたのだと解釈する人達がいた。
人々は何が真実かも解らずに、それぞれのなかで捉えて牧師を解釈した。人々はさもそれが正解であるかのように語りはじめた。人々は自分を納得させるために答えを見つけたがる。人々にとっては真実が必要なのではなく、真実らしくあればそれでよいのである。勝手なもので人々は真実よりも何かのドラマを求めたのかもしれない。
何故、著者が「セイラムの魔女裁判」をモチーフに今作を描いたのか――、その理由はここら辺にあるような気がします。人間はみな自分の見たいものしか見ようとしないと言いますが、それ故に起こる悲劇があるのかもしれません。人々がヘスターの咎として与えたはずの緋色の文字ですら、その時々で意味をかえてしまうのですから。

 

完訳 緋文字 (岩波文庫)

完訳 緋文字 (岩波文庫)