本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

ポール・オースター「鍵のかかった部屋」 翻訳:柴田元幸

今作は1986年に出版されたオースターの初期の作品です。「ガラスの街」「幽霊たち」と今作を合わせたものがニューヨーク三部作と言われていて、登場人物こそ違うけどいずれも人を探す(ある意味、自分を探している)という部分で共通している。数年前に「ガラスの街」が柴田元幸さんの翻訳で再出版されているので(以前は「City of glass」というタイトルで角川、講談社より別の翻訳家により出版されていた)三部作はすべてが同じ名翻訳家の表現で楽しむことが出来るようになっています。
僕は「好きな作家は?」と聞かれるとオースターの名前はリストに上がってくる。ただオースターは結構読んでいたつもりだったけど、あらためて数えてみるとこれで6作目だからそうでもない。積読本の山には「幻影の書」と「オラクル・ナイト」があるので、まだまだ重要作品が控えている辺りは、オースターファンを名乗るにはまだまだ説得力不足。でもこれだけは言いたい。オースターには読書ファンを一発で虜にする魅力がある。アメリカ文学ポストモダン作家と言えば名前があがるオースター。一見、洒脱な作風でこれまでの文学の重さから解き放たれた新しさがあり――、この空気感は現代によくマッチするように思われる。しかし読めば解る。やはりオースターもこれまでの文学が扱ってきた「人間とは何か?」を描いている。新しいアプローチでそれを読むことの面白さ。見えてくる人の側面もまた違うもののように思えてくるから面白い。

人気者に憧れる、無意識に意識している、ああなりたいと真似をする。あいつがやっているから俺もやる。人はそんな風に誰かに影響を受けるものなのだと思う――、特に若い頃などは憧れが自分の目標となり、一歩でも二歩でも近づきたいと努力をする。いつかはそうなれるかもしれないという可能性を追いかける。うらやましいでは終わらない、自分も努力すればそうなれるのではないか――、その妄想の虜になっていく。

ある時に僕(主人公)のところに昔の友人であるファンショーが失踪したという連絡があった。連絡をしてきたのは彼の妻であるソフィーだった。ファンショーはソフィーに「もしものことがあったときには僕(主人公)に連絡するように」と言付けをしていたようだ。ソフィーはその言いつけ通りに僕を頼りにしてきたのである。話を聞くとどうやらファンショーには最悪の事態(死んだ?)が起こっているようだった。何故ファンショーがそれを予見していたのかは解らない。しかし事前に「もしもの時には自分の書いたものを僕に渡すように」と言っていて、書いた物に価値があるかどうかの判断は僕に任すという――、煮るなり焼くなり好きにしろと言っていたのである。
ファンショーこそ、過去には僕の憧れた人物だった。頭が良かった。まわりに流されることがなかった。自分が正しいと思ったことならば他はお構いなし――、我が道をいくヤツだった。とにかくまわりとは一線を画するヤツだった。
しかし社会に出てからは疎遠となった。ファンショーの独自の路線にはついていけなくなった。僕は僕でそれなりにやっていくしかないことを知ったのである。そして現在では出版社にて書評を書いて評価を得た。本当ならば自分のオリジナルのものを書きたかったが、それは上手くいかなかった。それでも他人のふんどしで相撲を取る形だが、とりあえず物書きとしての評価は得たのである。そんな中でファンショーの書いたものを自分の裁量で判断する役割を与えられる――、いざ読んでみると、それらは価値あるものと判断せざるを得ないすばらしい作品ばかりだった。僕は出版社をみつけてファンショーも書き物を世の中に出すことを決めるのである。結果、ファンショーの作品は多大なる評価を得た――、彼の作品によって僕は莫大な収入を得ることになるのである(ちなみにソフィーとも関係を結び、その後結婚することになる)。というのが冒頭~1/3くらいのあらすじです。

これはある意味ファンショーという亡霊に取りつかれてしまった男の話である。主人公の僕は僕として僕なりの生活を築きつつあった。しかしこの期に及んでファンショーは幻となって姿をあらわし、僕を惑わせ始める。既にそうはなれないとあきらめつつあった道……、そもそもの才能が違うのだと納得したことは、自分の理想に対する敗北と言えるのだと思う。それなのにファンショーの残したものから利益を得るということは屈辱だった。
その後、ファンショーの著作はどれもヒットした。生活に困ることのない収入を得た主人公の暮らしは自堕落になっていき、ソフィーとの結婚生活にもかげりが見え始めるなかで、僕は自らの人生の選択にどうケリをつけるのか?

これ以上ネタバレがないように書きますが、これはファンショーの影を追いかけているようでいて、結局のところは自分自身を見つける話なのだと思う。憧れのファンショー像をつくり上げたのは自分自身に他ならない。いつまでも逃れられないかのような亡霊の正体は、叶わない理想をまだまだ捨てきれない自分の未練に他ならない。主人公は一旦はあきらめたようでいて、あきらめきれてはいなかった。そもそもあきらめる必要はなかったのかもしれない。ただファンショーという、敵わないライバルを目の当りにして、自尊心が傷つくまえに旗を下ろしてしまっただけなのです。
こういうのってありますよね。憧れという表現はどこか遠いけれども、結局のところ執着なのだと思う。誰かに投影させた自分の理想―― たどり着けないと知ったときには、憧れとして、彼方のものとして、自分の傷を浅く済ませようとする。別に本気じゃなかったんだよ……、なんて聞こえてきそうである。でも本当はどうなのか。今作の主人公・僕は幻のファンショーと対話をしているようでいて、自分の本心と語り合っていたのだと思う。
オースターの描写は軽快で、深く悩んだり苦しんだりしている様子はあまりない。でも知らず知らずにグサリと突き刺さっている。重たくなりがちな話をサラリと描くから、読後に振り返ったときに自分にも同じ心当たりがあることに気がついて、やれやれと言いたくなる。 失ったものに気がつかされて溜息のひとつでもつきたくなる。

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)