本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

トルストイ 「復活」 翻訳:木村浩

「復活」とは、web辞典を見てみると「死んだものが生き返ること。よみがえること。蘇生」「いったん廃止したものなどを再びもとの状態に戻すこと」他には「キリスト教で、十字架上で死んだイエス・キリストがよみがえったことをいい、キリスト教の最も中心的な信仰内容」などと書いてある。
「復活」の意味なんか今更言われるまでもないことだろうけど――、ただ今作で描かれる「復活」の味わい深さは「人生の再生」にその言葉がつかわれていること。昔の自分を捨て去って新しい自分になれたことに対して「復活」という言葉がつかわれていることにある。

今作の主人公はネフリュードフと言い、善良な貴族の青年である。彼はある時に陪審員として裁判に参加するのだが、そこで裁かれている一人の女を見てハッとする。その女はカチューシャと言い、彼が若かりし頃に手篭めにした――、ひとときの感情(その時は本気だった)に流され関係をもった女だった。しかしバツの悪さを覚えた彼は別れ際に100ルーブルを渡し彼女の元を去り、その後のいきさつなど気に留めることもなかった相手なのである。
それが今や、カチューシャは金持ちの男を毒殺した疑いにより裁判にかけられている。彼女は娼婦となり身をやつし彼の目の前に現れた。ただ審理が進むなかで彼女には殺意がないことがあきらかになった。軽い刑で済むはずだった――、しかし手違いがあり彼女にはシベリアへの徒刑が宣告されてしまう。そこで彼は彼女を助けるために奔走することを決意する。若かりし頃の愚かな行為が彼女の人生を狂わせてしまったのではないかという思いに苛まれ、彼は彼女を救い出そうと決意をするのである。というのが大まかな流れです。

カチューシャの人生を自分が狂わせてしまったと考えるネフリュードフ。だから彼女を救わなければならないと考えることは独善的(ひとりよがり)です。これは彼女の人生の軽視に他ならない――、どれほど彼が彼女に影響を及ぼしたのかは、今となっては解らない。それなのに彼は自分の過ちによって彼女の人生を貶めてしまったと彼は思い悩むわけです。
ネフリュードフという男の精神が善良であることは間違いありません。自分の犯した過ちに責めさいなまれること、それは罪をあがなわなければならないという意識を持ち続けることであり、自身の魂をより良いものにすることなのだと思います。ただし、もし本当に罪があったとするならば、救われなければならない対象は彼女であり、彼が自分の罪により自分自身の過ちから救われようとするのは自己欺瞞と言えるのかもしれません。だから当初、カチューシャもその匂いを嗅ぎつけて彼に心を開くことはありませんでした。実は彼自身もそんな欺瞞的の思いと、本当の救いとは何かという問いの間で揺れ動き、自分の行動に絶対的な信念を持てないでいるのです。
それでもネフリュードフという男に頭が下がるのは、彼が行動をし続けたことでした。本当に正しい事なのかどうか? 解らないまま彼は苦しい道を選び続けた――、欺瞞である、偽善である、という結論を盾にして先の見えない苦しみの行動に決着をつけることは出来たのかもしれません(それはそれで彼ののようなタイプはひとつの苦しみを生むのかもしれませんが……)。それでも彼は苦難の道を突き進んだ。加えてカチューシャを救うだけには留まらず――、ロシアの社会のなかで弱者が権力の横暴により、罪をなすりつけられている事実を目の当りにして、そんな一人ひとりを救おうと行動し続けるのである(ネフリュードフ自身は貴族であり差別社会のなかでは上位に位置している。彼はその地位が保たれていることの裏で、虐げられている人々の存在がいることを知り、さらに苦悩を深めていく)。

ネフリュードフはカチューシャの徒刑にともなってシベリアへと移動する。彼女の心も次第にほぐれていき彼に思いを寄せるようになっていく。そしてシベリアの地で二人の愛は…………、という具合に進んでいかないのが今作の面白さであり、著者トルストイがネフリュードフに与えた最後の試練。これ以上ネタバレにならないようにあらすじは書きませんが、著者が描きたかったのは「復活」という名のネフリュードフの「人生の再生」。叩きのめされた後に、再び立ち上らなければならない。その時に彼のなかに新しい変化が生まれなければならない。
ネフリュードフはとにかくカチューシャを含め、身の周りの人々に手を差し伸べることを正義とした。そこに自分自身の罪の許しを求めていたのである(これはカチューシャへの罪、そして貴族として無自覚のまま持たない者たちを犠牲にしていた罪)。しかし実際のところネフリュードフには何が出来たのか?
厳しく言うならば何も出来なかったに等しいのかもしれない。もはや社会がかかえる問題は個人の力を越えていた。次々に現れる人々の悲痛な声はロシアという社会の構造そものもだった。そこにパッチをあてがいあてがい……徒労を重ねていくが、限界にぶちあたり、やがて潰れていくのである。その時にネフリュードフは打ちのめされ絶望を味わうのだが、彼は行動をし続けたことにより絶望のなかに希望を見つけるのである。矛盾していることを書いているが、終わりは始まりと繋がっていて、彼は走り続けたからこそ(疲労で動けなくなるまで行動したからこそ)再び新たなスタート地点に立つことが出来たのである。この先、ネフリュードフの人生がどうなるかは語られない。しかしネフリュードフは人間としてひとまわり大きくなり、再び行動を起こしているように思われる。この小説は絶望的な展開で終わっているにも関わらず、彼が潰れてしまったとは思われない。不思議な味わいだが、深く沈むほどにこの先、高く飛び上がるように思われる。絶望は彼が閉じ込められていた、ひとつの殻を割るための苦労だったように思われるのである。

 

復活 (上巻) (新潮文庫)

復活 (上巻) (新潮文庫)

 

 

 

復活〈下〉 (新潮文庫)

復活〈下〉 (新潮文庫)

 

 ブログを始めてから長編に手が伸びなかった(更新がと滞ってしまうので)。それではいかん。なんのための読書ブログぞ。長編こそ読書の醍醐味ではないかと思いなおしてトルストイの「復活」、バルガス・リョサの「緑の家」を平行読みをしはじめました(2作品で文庫1400ページ程)。おかげさまで「緑の家」も、もう少しで読み終わるので遠くない内に感想を書けると思います。

月10記事アップを目標にしていたけれども、そんなの無視して好きな本を読んで好きなように感想を書いていこうと思います(なので今月は更新が少なめです)。この勢いで今月は長編月間――、ギュンター・グラスブリキの太鼓」、フォークナー「八月の光」、トーマス・マン魔の山」を積んでいるので読んでしまおうか……

ポール・オースター「鍵のかかった部屋」 翻訳:柴田元幸

今作は1986年に出版されたオースターの初期の作品です。「ガラスの街」「幽霊たち」と今作を合わせたものがニューヨーク三部作と言われていて、登場人物こそ違うけどいずれも人を探す(ある意味、自分を探している)という部分で共通している。数年前に「ガラスの街」が柴田元幸さんの翻訳で再出版されているので(以前は「City of glass」というタイトルで角川、講談社より別の翻訳家により出版されていた)三部作はすべてが同じ名翻訳家の表現で楽しむことが出来るようになっています。
僕は「好きな作家は?」と聞かれるとオースターの名前はリストに上がってくる。ただオースターは結構読んでいたつもりだったけど、あらためて数えてみるとこれで6作目だからそうでもない。積読本の山には「幻影の書」と「オラクル・ナイト」があるので、まだまだ重要作品が控えている辺りは、オースターファンを名乗るにはまだまだ説得力不足。でもこれだけは言いたい。オースターには読書ファンを一発で虜にする魅力がある。アメリカ文学ポストモダン作家と言えば名前があがるオースター。一見、洒脱な作風でこれまでの文学の重さから解き放たれた新しさがあり――、この空気感は現代によくマッチするように思われる。しかし読めば解る。やはりオースターもこれまでの文学が扱ってきた「人間とは何か?」を描いている。新しいアプローチでそれを読むことの面白さ。見えてくる人の側面もまた違うもののように思えてくるから面白い。

人気者に憧れる、無意識に意識している、ああなりたいと真似をする。あいつがやっているから俺もやる。人はそんな風に誰かに影響を受けるものなのだと思う――、特に若い頃などは憧れが自分の目標となり、一歩でも二歩でも近づきたいと努力をする。いつかはそうなれるかもしれないという可能性を追いかける。うらやましいでは終わらない、自分も努力すればそうなれるのではないか――、その妄想の虜になっていく。

ある時に僕(主人公)のところに昔の友人であるファンショーが失踪したという連絡があった。連絡をしてきたのは彼の妻であるソフィーだった。ファンショーはソフィーに「もしものことがあったときには僕(主人公)に連絡するように」と言付けをしていたようだ。ソフィーはその言いつけ通りに僕を頼りにしてきたのである。話を聞くとどうやらファンショーには最悪の事態(死んだ?)が起こっているようだった。何故ファンショーがそれを予見していたのかは解らない。しかし事前に「もしもの時には自分の書いたものを僕に渡すように」と言っていて、書いた物に価値があるかどうかの判断は僕に任すという――、煮るなり焼くなり好きにしろと言っていたのである。
ファンショーこそ、過去には僕の憧れた人物だった。頭が良かった。まわりに流されることがなかった。自分が正しいと思ったことならば他はお構いなし――、我が道をいくヤツだった。とにかくまわりとは一線を画するヤツだった。
しかし社会に出てからは疎遠となった。ファンショーの独自の路線にはついていけなくなった。僕は僕でそれなりにやっていくしかないことを知ったのである。そして現在では出版社にて書評を書いて評価を得た。本当ならば自分のオリジナルのものを書きたかったが、それは上手くいかなかった。それでも他人のふんどしで相撲を取る形だが、とりあえず物書きとしての評価は得たのである。そんな中でファンショーの書いたものを自分の裁量で判断する役割を与えられる――、いざ読んでみると、それらは価値あるものと判断せざるを得ないすばらしい作品ばかりだった。僕は出版社をみつけてファンショーも書き物を世の中に出すことを決めるのである。結果、ファンショーの作品は多大なる評価を得た――、彼の作品によって僕は莫大な収入を得ることになるのである(ちなみにソフィーとも関係を結び、その後結婚することになる)。というのが冒頭~1/3くらいのあらすじです。

これはある意味ファンショーという亡霊に取りつかれてしまった男の話である。主人公の僕は僕として僕なりの生活を築きつつあった。しかしこの期に及んでファンショーは幻となって姿をあらわし、僕を惑わせ始める。既にそうはなれないとあきらめつつあった道……、そもそもの才能が違うのだと納得したことは、自分の理想に対する敗北と言えるのだと思う。それなのにファンショーの残したものから利益を得るということは屈辱だった。
その後、ファンショーの著作はどれもヒットした。生活に困ることのない収入を得た主人公の暮らしは自堕落になっていき、ソフィーとの結婚生活にもかげりが見え始めるなかで、僕は自らの人生の選択にどうケリをつけるのか?

これ以上ネタバレがないように書きますが、これはファンショーの影を追いかけているようでいて、結局のところは自分自身を見つける話なのだと思う。憧れのファンショー像をつくり上げたのは自分自身に他ならない。いつまでも逃れられないかのような亡霊の正体は、叶わない理想をまだまだ捨てきれない自分の未練に他ならない。主人公は一旦はあきらめたようでいて、あきらめきれてはいなかった。そもそもあきらめる必要はなかったのかもしれない。ただファンショーという、敵わないライバルを目の当りにして、自尊心が傷つくまえに旗を下ろしてしまっただけなのです。
こういうのってありますよね。憧れという表現はどこか遠いけれども、結局のところ執着なのだと思う。誰かに投影させた自分の理想―― たどり着けないと知ったときには、憧れとして、彼方のものとして、自分の傷を浅く済ませようとする。別に本気じゃなかったんだよ……、なんて聞こえてきそうである。でも本当はどうなのか。今作の主人公・僕は幻のファンショーと対話をしているようでいて、自分の本心と語り合っていたのだと思う。
オースターの描写は軽快で、深く悩んだり苦しんだりしている様子はあまりない。でも知らず知らずにグサリと突き刺さっている。重たくなりがちな話をサラリと描くから、読後に振り返ったときに自分にも同じ心当たりがあることに気がついて、やれやれと言いたくなる。 失ったものに気がつかされて溜息のひとつでもつきたくなる。

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 

 

エイモス・チュツオーラ「ブッシュ・オブ・ゴースト」 翻訳:橋本福夫

エイモス・チュツオーラ(1920-1997)はナイジェリアの作家であり、代表作「やり酒飲み」はアフリカ的マジックリアリズムとして世界各国で読まれている小説。今作「ブッシュ・オブ・ゴースト」は「やし酒飲み」の次に書かれた作品であり、アメリカのロックバンド「トーキング・ヘッズ」が今作品に感銘を受けて同じタイトルのCDアルバム「ブッシュ・オブ・ゴースト」を作っている、ということで知られている(僕はよく解らないんだけど、とりあえず影響力があったということを伝えたい)。今作は1990年代にちくま文庫で発刊されたものの、今は絶版。チュツオーラ作で一番有名な「やし酒飲み」は岩波文庫で発刊されているので気になる方はそこから入るのがいいのではないだろうか。

さて今作、冒頭が秀逸。遠くで銃声が聞こえたときに7歳の少年と兄はその音が面白くて踊りだしてしまう。しかし音が近くまで来た時になって、これはおかしいと気がついて二人はようやく逃げ始めた。しかし7歳の少年は足でまといになってしまう。だから少年は木の影に隠れることにして兄だけが逃げていった。やがて少年は近くのブッシュに気がついた。親からは絶対に入ってはいけないと言われていた場所だった。やむなく少年は禁を犯してブッシュのなかへと足を踏み入れた。ブッシュのなかに入るとそこは異世界――、タイトル通りにゴーストの世界が広がっているのである。
さてさて、アフリカのブッシュのなかにあるゴーストの世界――、みなさんならばどんな世界を想像するでしょうか。世界各国にはそれぞれの姿でゴーストとかオバゲとか人ならざる者が存在するわけだけれども、アフリカではどんな姿形をしているのか。
一番最初に少年が出会うのは「悪臭ゴースト」。どこか滑稽に思われるかもしれないが、コイツはとにかくおぞましい。愛嬌ゼロ、親しみゼロ、話が通じそうな感じはゼロなのである。つまり今作が描くゴーストとは気持ちわるく、汚らしく、なんなら腐っていたり(ゴーストだけど実体はあり幽霊のようにホログラム的ではない)、ただれていたり、めくれていたり、手足がなかったり、ゾンビ的でもあり、肉の寄せあつめとでも言うような読み手に嫌悪感を生むヤツらとして存在している(他にもいろいろなタイプがいるんだけど)。
そしてコイツらの行いがとにかく酷い。殴ったり蹴ったり食おうとしたり――、ただ少年はゴーストの世界では物珍しかったのか、ひとまず奴隷にされ重労働を課されることで許される(許されてないけど)。7歳の少年に対してである(日本でいうところの小学二年生にですよ)。飯を食わせない、水すら飲ませない。眠ることを許さない、働いて働いて働かされる。サボれば鞭が飛んでくる。殴られるどころか切り刻まれる。とにかく僕などでは耐えられそうにない状況に少年は追いやられていくわけなんです。
と書くと悲壮感が漂い目も当てられないような小説に思われるかもしれないが、そんなことはまったくないのが不思議なところ。惨いのは解るんだけど、ゴーストの存在も、やっていることも振り切っているから笑えてしまう。というか……、そもそも少年がたくましいのである。ひーひー言いながら、こんな臭い水は飲めたものじゃない!がっかりだ!なんて平然と言ってのける姿には破滅とか絶望とか、あるいは死が迫っているという感じはない。
この話はどういう経緯で書かれているのか――、おそらくその土地で受け継がれてきた話、伝承されて語られてきた話、先人の知恵によって出来上がった教訓を授けようとする話を、形をかえて伝えるというのがチュツオーラの意図するところなのだと思う。この手の話はどこの国にでもあって、ここで語られるゴーストというのを日本っぽく言うならば「アフリカ版の妖怪」とでも言ったところなのでしょう。

つまりはどんなことがあってもブッシュには入ってはいけなかったのである。アフリカのブッシュに潜む危険は想像を絶するものであって、それを寓話に置き換え恐怖によってそれぞれに植えつけようとする魂胆なのだと思われる。というのも少年が人間の世界に戻ってくるのにのには、なんと24年の歳月がかかっている。その間、少年は青年となり、やがて中年となるわけですが、ずーっと散々な目に合い続けているんです。とにかく酷いんです。
とは言え、これは形を変えた教訓話としての小説なのかと言われれば、それだけでは収まらないところが評価を得ているところなのでしょう。冒頭アフリカ的マジックリアリズムとして知られる、と書いたとおりにこれは幻想的な文学としてオリジナリティあふれるものに仕上がっている。日本ではこんな作風は生まれない。おそらく欧米でもこんな感じでは描かれない。どちらかというと南米文学に近いものはあるのかなぁ……
とにかくこれはチュツオーラという作家のぶっ飛んだ想像力を楽しむ小説――、小説の新しい可能性を感じる作品なのだと思う。 

ブッシュ・オブ・ゴースツ (ちくま文庫)

ブッシュ・オブ・ゴースツ (ちくま文庫)