本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

スティーヴ・エリクソン「アムニジアスコープ」 翻訳:柴田元幸

タイトル「アムニジアスコープ」、アムニジアとは記憶喪失とか健忘を意味し、スコープは視野とか範囲とか……、あと他には銃器の照準器という意味にも使われる。どの組み合わせが著者の意図したニュアンスに近いのかは解らないけれども、僕個人としては「過ぎ去ってしまい真偽が定かではなくなっていく曖昧な記憶としてでしか過去を留めておくことの出来ない人間が、いざ自らを振り返り、その人生を覗きこもうとしたときに自分の歩んだ道のりの不確かさに愕然とする話」なのだと思った。時が経つにつれて何かが抜け落ちて記憶が曖昧となっていく様を「アムニジア」と表現し、それを今現在にて思い返して(覗きこんで)いる視線を「スコープ」と表現しているのかなぁと思った……。人間はもともとの設定からして記憶を喪失しながら生きているのかもしれない。むしろ雑多な世の中ではそうとしか生きられない存在なのかもしれないと思わされた。
過去、現在、未来、それらは言葉として色分けしているけれどもその境界は曖昧としている。時の流れなるものがあるとして、加えてそれが進む方向があるとして、例えば解りやすく→→→(矢印)なんかで表現するとして、我々は常に(この瞬間にも)矢の向きへと押し出されていると言えるのかもしれない(その他、色々ある時間論についてはここでは言及しない)。その際にどこからが未来でどこからが過去なのか、突き詰めようとするほどに解らなくなっていく。現在を生きているということは結局のところ未来に対して生きていることなのか、あるいは過去の積み重ねによっての現在があるのだから、現在とは過去の総体……、つまり現在とは過去を生きたということなのか――、別に今作は科学とか哲学の観点からそれらをを追及しているわけではないのだけれども、読んでいるとどこにも軸足を置き切れない人間というものを意識させられるつくりになっている。
今作、主人公の「わたし」は出版社に身を置いて作家として活躍をしていて、著者エリクソンのなかでは自伝的と言われている作品です。あとがきで翻訳者の柴田元幸さんがエリクソンに「これはどの程度自伝的なのか?」を聞き、それに対する回答をもらっている。これが今作の核となっている気がするので、以下引用。

人間は人生がかつて夢見たようには進んでいないという思い。父を亡くしたという事実にまだ慣れていないという思い。総じて、僕の瞬間は過ぎてしまったんじゃないか、という思いだね。主人公は感情的、精神的にゼロ地点に達してしまった、官能性しか残っていない男。その男は僕自身ではないが、そういう状況には全面的に実感できた。

若かりし頃に見ていた夢、それが叶わないと気がついたのはいつのことなのか? その時に自分はどうやって自分の気持ちに折り合いをつけたのか。僕は覚えてはいない。どこかにそんな確かな瞬間があったとも思えない。しかし今現在に立っている場所があの頃に夢見た場所ではないことだけはハッキリしている。点と点で人生を比べたときには思いもよらない場所にいる自分に愕然としてしまうことがある。ただ途切れることのない人生のなかで、その日その日をそれなりに(時には精一杯)こなしてたどり着いた今だから、選んだのは自分であることは間違いない。
人生とはなかなか残酷なものである。その瞬間には解らない。解るのは所詮は結果が出たあとでしかない。エリクソンが答えた「僕の瞬間は過ぎてしまったんじゃないか」という感覚は、あの頃と今とを比べたときに見えてきたタイムリミットの「限り」に対しての心境であり――、しかしそれを選んだのはあくまでも自分なのだから、肯定とも否定ともつかない、ある意味あきらめにも似た境地へと自分を追いやる言いわけなのだと思う。

とダラダラ書いているけれども、ほとんど内容に触れていない(反省)。今作は舞台は近未来、大震災に襲われた後のロサンゼルス。そこでは無数の時間の流れが生まれていて、主人公であるわたしはロサンゼルスに幻想を見る。バックファイア(向かい日)、メモリースコープ(記憶鏡)、記憶喪失鏡、それらのアイテムが何なのかがはっきりとしないままに読者はわたしの不確かな記憶の断片を知ることになる。わたしの語りは本当のことなのか、幻想なのかが解らない。

ただ自らが健忘しているという事実は――、ひるがえって健忘の「自覚がある」ということであり、何かの感触は残っているということだから、そいつ糧にしながらわたしは記憶を探っていく(完全に忘れ去ったものは、もはや思いだそうとする対象にすらならない)。
見えてきたのはこれまでに関係をもった女性たち。なかでもヴィヴという女性がわたしが震災後のロサンゼルスを生きていくなかでの、かけがえない存在だった。わたしは常にヴィヴを意識している。ヴィヴがわたしを現実に繋ぎとめる役割を果たしているかのようでもあり、ある意味ヴィヴがわたしの存在意義だった。にも関わらずわたしは他の女性と関係をもった。その事実が本当なのか、幻想なのか解らないままに語られていくというのが今作のつくりです。
不思議なプロットが色々あって、なかでもこの小説を象徴をするかのような面白いエピソードがある。ある時に、わたしはいたずらのつもりでありもしない映画の書評を書いた。記事は編集・校正にまわっていくなかで誰かがわたしの渾身のギャグ(嘘っぱちを紛れ込ませたこと)を見抜いてくれるはずだった。しかし誰も気づくことなく記事は雑誌に載ってしまうのである。ヤバいと思うわたしだが、何故だかその記事は世間でも絶賛されるのである。わたしはますますわけが解らなくなる。存在しない映画のはずなのに、わたしのでっち上げが評価を得ているということは?
パラレルワールドとも思える描写だけれども、そういうのではなく。そもそもこの小説自体が混沌としている。はたしてこの世には確かなものなどあるのだろうかとでも著者エリクソンは言いたげでもある。
では、今作はそんなモヤモヤのなかへと叩き込んでお終いなのか? と問われれば、それも違う。なかなか説明の難しいところなんだけど、このモヤモヤは「何かが生み出される以前」に思える。つまり何にでもなれる可能性として混沌があるのではないか。
というのも読後感が妙に清々しい。この話はある瞬間には何かをあきらめた男の物語にも思えたが、そのあきらめすらも再スタートへと向けた前進なのかもしれないと思わされる。エリクソンの魔術的な描写はものごとの表裏をあらわし、そこでは互いの矛盾が組み合わさりようやくひとつになれたようでもある。

これは読んで感じる作品である。読後にはいくらでもあれこれ言える。その余地があることが、この小説の素晴らしさなのだと思う。

 

アムニジアスコープ

アムニジアスコープ