本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

プラトン「ゴルギアス」 翻訳:加来彰俊

今作のテーマは弁論術について

プラトン著「ゴルギアス」を読みました。ゴルギアスとは人の名前――、古代ギリシアにおける弁論術の第一人者です。彼は多くの生徒を教えていて「弁論によっていかに人々を従わせることが出来るか」の技術を磨いていた人物。
ということで今作のテーマは「弁論術の本質と是非」が問われる話。
プラトンの著作と言えば「知について」「エロスについて」「徳について」「魂の不死について」など、どちらかというと形而上(感性的経験では知り得ないもの)の究極を目指す話が多いのですが、今作は「弁論について」――、なので身近であり少し生々しい内容でした。

 

弁論術とは何か?

まず今作で言う弁論術とは何なのか? あとがきを読むと「弁論とは人々を説得させる能力のことであり主に政治の術として民会や政治集会において人々の心をつかむ技術として使われたもの」ということが書かれている。古代ギリシアアテナイでは民主制が採用され人々が意見を交わす場所があったようだが、それらの場所で雄弁に語って人々を説得できる者こそが、ゆくゆく頭角をあらわしていき立身出世ができたらしい。だから誰もが弁論術を学びたがった。その能力があればこそ地位や名誉を築くことが出来ると当時の人々は信じていたようです。
口が達者――、加えて何かしらの魅力を感じさせることのできる人という感じなんだと思います。どうでしょうか……、これは2400年前くらい前の古代ギリシアでの話ですが現在に通じるものがあるように思えます。昔も今も人間ってやっていることはあまり変わらないのかもしれませんね。

 

ゴルギアスという人物

今作はソクラテスとの対話というスタイルで話は進んでいきます(対話編です)。その相手こそが弁論術の使い手たちで――、ゴルギアス、ポロス、カルリクレスという3人になります。ゴルギアスは弁論術の大家です。彼はかつてペロポンネソス戦争(紀元前427年)で祖国が存亡の危機に立たされたときに、外交使節団の首席代表として同盟国へと派遣され――その時に持ち前の雄弁さでもって隣国を説得して祖国を救ったことがあるんです。市民からもその活躍で広く知られた人物なんです。
上では弁論術は出世の手段……的に書いてしまったので悪い印象を持たれたかもしれませんが、ゴルギアスに関しては弁論術の不正な使用に関しては「これを戒めるべきだ!」という立場です。ゴルギアスはちゃんとしているんです。正義のために弁論術を使うべきだ、と徹底していた人物なんです。
しかしソクラテスとの対話のなかで「正しいことをするために弁論術を学んだのに、それを恣意的に不正につかう人間がいるのは何故か?」という矛盾をつかれて沈黙してしまうんです。弁論術こそ正しく価値があるとしていたにも関わらず、それを意図的に不正に使用しているものがいることをおかしいではないか?とソクラテスは言うのです。真に正しいことを学んだならば、その後不正を行う者にはならないはずでは?という問いです。

 

ポロスという人物

ここでバトンタッチをして出てきたのが弟子であるポロスという若者です。ポロスの反撃はこうです。弁論術を駆使しているものこそが思い通りに世の中を動かしているではないか――、事実を見たときに、それこそが正しさではないか? つまりポロスに言わせるならば幸福はつかみ取らなければならないものであり、現実ではそう答えが出てしまっている――、弁論術で権力を得た者が人生を謳歌しているのに対し、要領の悪い者の人生は幸福ではない――、それらに関してはどう説明が出来るのか?と。
ポロスの価値観は善悪ではなく現実がどうかということ。弱肉強食の世界のなかで力のあるものが弱者を従えているのが実際だ――、これに対してはどう答えるのか? というわけです。
ソクラテスはここで「不正を行うのと受けるのでは、どちらが不幸なことか?」と問い――、それは行うことなのだと教え諭します。
実は今作でのポロスの立場はとても中途半端――、この人物が象徴しているのはゴルギアスと、この後で登場するカルリクレスの中間に位置していて、ごくごく一般的な感覚の持ち主という感じです。というのも最初こそソクラテスに反論したもののポロスにはどうやら世間なみの道徳意識があり、自らの意思を貫くことができないのです。世の中は弱肉強食だ、と言いつつもどこかで「うーん」と悩んでいる感じです。

 

カルリクレスという人物

ここで見るに見かねてで出来たのが最後の刺客であるカルリクレス。カルリクレスは「ポロスは心に思っていても、あえて口にはしなかったのだ」と言い――、権力こそが全だっ! と今一度ソクラテスに噛みつきます。カルリクレスに言わせれば「ポロスの倫理観が不正を行うことを醜いと認めただけで事実は違う」――、強者が弱者を支配して力に見合った分を余分に取るのが正しいと言うわけです。これは「自然の正義(摂理)」という価値観らしく、原則として人間社会の真理であると言うわけです。一方で弱者は自分が無能であることを逆転させて不正を受けることの正さを訴えている――、例えば卑屈さを忍耐と置き換え、臆病を謙虚と置き換え、本質から目を背けているとカルリクレスは言うわけです。
ただしソクラテスはその後の対話のなかでカルリクレスをも論破します。弁論術とは所詮「経験」であって語りかける相手に迎合しているに過ぎないことをカルリクレスに解らせるのです。「経験」はそのものの本性や原因についての知識を必要とするものではなく、それまでに学んだことから引き出した推測によって相手を納得させるものです。つまりはその時々で変わるもの――、弁論術など「確かなものではない」ということを解らせるのです。
ただしカルリクレスという人物は今この時に政治家として活躍していて、まさに現在弁論術によって生計を成り立たせている人間――、だから論破されながらもソクラテスの言うことを認めません。最後の最後まで認めることなく、この話は終わっていきます。
それが何を意味するのか? おそらくこれこそが当時のギリシアの政治の状態の表現なのでしょう。この時のギリシアでは何が本質なのかがないがしろにされ言葉巧みに周りを言いくるめられる者こそが力を得ていた――、カルリクレスが最後までソクラテスの言葉に納得しなかったのは、真実を解りつつも利益を得る欲望から逃れられない政治家の愚かさを読者に示すためだったのかと思われます。

 

ソクラテスは何に殺されたのか?

ソクラテスと言えば著者であるプラトンの師匠にあたります。ソクラテスの最後と言えば「若者をかどわかした罪」により死刑に処されています。その事実は当時の政治の有様を示しているとも言え――、プラトンにとっては許せるものではなかったのでしょう。何故、ソクラテスは死ななければならなかったのか? おそらく口先だけで人々を説得していた政治家たちにとって真実を語るソクラテスは疎ましい存在だったのでしょう。今作は色々ある対話編のなかでソクラテスは特に痛烈な批判を行っています。それは弁論術がまがいものであることをはっきりとさせるためなんだと思われます。これを書いているときのプラトンの心情やいかに。師匠の代弁――、ソクラテスに対する思いの強さが、そこにはあるように思えます。

 

ゴルギアス (岩波文庫)

ゴルギアス (岩波文庫)

 

 

オラシオ・カステジャーノス・モヤ「無分別」 翻訳:細野豊

真実という重み……

翻訳者によるあとがきを読むと、この作品の持つ重みが変わってくる。この作品の内容はとある男が千百枚にも及ぶ虐殺の記録原稿を整理編集するというもの。その虐殺というのはグアテマラで36年間という長さに及ぶ内戦の中でマヤ族という民族に行われた虐殺。軍がひとつの民族を根絶やしにしようとした事実。記録によると626の村が破壊され、死者・行方不明者は20万人以上。避難民150万人。国外避難民15万人。総人口の1000万人のうち20%が被害者となった――、という事実を元にした話なんです。終結が1996年だから、ついこの間のこと……、さらに辛い事実として虐殺の実行犯たちは今なお権力の座に居座り裕福な生活を享受しているのだとか……。

 

反転して見えてくるものがある

ちなみに作中にはそれらの描写(事実の詳細の描写)はありません。描かれていたのは千百枚におよぶ虐殺の記録があるということ。主人公がそれを整理編集する役割を担っているということ。大きなところではそれだけだったように思えます。
むしろ著者は悲惨な真実を隠すように描いていたフシがある。何故か? おそらくそれを描くとしたらあまりにもおぞましく陰惨な読み物になってしまうから避けているのだと思われる。違うアプローチでこの事実を伝える方法はないか――、その過程で生まれたのが今作だと思われます。
というのもこの小説の味わいは「滑稽」なんです。虐殺の記録を読む主人公の精神がむしばまれていく姿を描くのですが、話が進むにつれて主人公がありもしない妄想にとらわれていく姿が面白いんです。先日読んだトマス・ピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」と似ていてパラノイア(精神病の一種、偏執的になり妄想にとられていく)をテーマにして描いているのだと――、僕は最後の1ページを読むまでは思っていました。
でも、そうではないんです。主人公の妄想は妄想ではなかった。事実との境目は曖昧なんですが、ただの妄想ではなかったことが明らかになるんです。
「あれ、マジで?」それから僕は少しポカンとした。で、あとがきを読んでさらに驚いた。というもの今度は小説世界を越えた現実での反転が起こっている……、おそらく全てを計算した上でやっているのだと思われる。この作家さん、すごい力量です。
ややこしいのでもう少し説明を。ラスト1ページでの反転は読者の思い込みを反転させるんです。いわゆる驚きですね。「ラスト1ページの衝撃」みたいなあおりがありますが、その手の驚きです。そして次なる反転――、こっちの方はこっそりと潜ませている。事実を知る人が読めばすぐ解るのだろうけど、知らない人はずっと知らないままなんだと思う。ただし知ったならばギョッとする。
こっちの反転は明暗の反転。暗がりにあって見えなかったものが明るみに出てくる。驚きは驚きでもこっちは価値観に訴えてくる。それまではこんなに暗い話をよく滑稽な味わいで書けるものだと関心していたのに、事実を知ると「よくコノ事実を滑稽に書けたものだ!」とビックリしてしまう。小説のもつ意味合いがひっくり返り、そうなった原因(虐殺という事実)に意識が向いてしまう。滑稽であればあるほど陰惨とのコントラストがつくという作りなのだと思う。この振れ幅の大きさこそがこの小説の隠された味わい。窓から眺めていた世界が本当の世界ではなかった、という手の味わい。

 

中南米文学には風土が生む血肉を感じる

世界には凄い作家さんがいっぱいいますね。この作家さんはエルサルバドルで育って、メキシコ、グアテマラでジャーナリストや編集の仕事をしていたらしい。
出自の影響なのか作風はやはり中南米っぽく――、幻想的で詞的。それから向こうの熱い血のようなものや、何故だか解りませんが原色をイメージしてしまいます。ここら辺は風土が違えばこそ生まれる何かで日本人には出せないものだと思われます。中南米文学は毎回だとげんなりしそう(疲れてしまいそう)ですが、時々読む分には刺激的で自分のなかのどこにあるのかも解らないあたりの血がたぎります。生命力でしょうか。それとも文章を介して伝わる肉感や皮膚の色。白人とも黒人とも違う(もちろんアジアでもない)独特の雰囲気。
図書館で装丁に惹かれて手にした一冊でしたが、予想以上に面白かった。返却するときにまた中南米文学の棚に行って他の著作も探してみようかな(いや、もともとガルシア・マルケスコレラの時代の愛」を借りようと思っていたから今度はそっちかな)。

  

無分別 (エクス・リブリス)

無分別 (エクス・リブリス)

 

 

オルハン・パムク「わたしの名は赤」 翻訳:宮下遼

 

わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

 

異国情緒あるれる文学  

著者、オルハン・パムクトルコ人作家です。2006年にノーベル賞を受賞しています(トルコ人初)。今作はフランスで最優秀海外文学賞、その他アイルランド、イタリアで文学賞を受賞しているようです。

今作の舞台となるのは16世紀末のイスタンブール。皇帝の命令により秘密裏に細密画が描かれることとなった。しかしその画に関わった一人の画家が殺されてしまう。どうやら原因はその細密画(命令内容)にあるらしい。いったい何が原因なのか? ひとつの絵画を通して当時のイスラム社会の風土、そしてそこに生きた人々が感じたであろう苦悩が伝わってくる作品――

スケールが大きくてとても読み応えのある作品です。なによりも我々日本人にとってはまったくの異文化――16世紀のイスラム世界。描写からもどこか魅惑的な雰囲気が漂ってきます。

細密画と言ってイメージ出来ますでしょうか? 今作の装丁がまさにそれなんですが、西洋の立体感をともなうものと違ってとても平面的。目で捉えるものをそのまま描くのではなく、そのものの本質を描くことを目的としているんです。
偶像崇拝が許されないイスラム。そもそも画家なるもののスタンスは世間からは懐疑的に捉えられ(認められてはいない)高い身分ではない――、故に実験的な画法が生まれるような下地はどこにもないのです。西洋の写実的な画はイスラムでは異端であり、許されるものではなかった。だから細密画家たちは従来とおりの技術を継承し、その技法をつきつめることに情熱を燃やしていた。
米粒に画を描くなど、細密さを求めるあまり晩年には盲目となる画家も多かった。そして盲目となることは一流の画家としての名誉だった(年老いて目が見える画家は馬鹿にされることもあり、盲目を演じる者もいたらしい)。盲目となったならば、それまでに焼き付けた頭のなかの像によって、さらに純粋に描けるものと信じられていた。

 

文化の過渡期……その無常さとは

この作品は「わたしの名は○○」と章立てされて区切られ、その都度語り手が変わっていく。ちなみにタイトル「わたしの名は赤」の語り手は「」――、赤色が話を語り出すのです。他にも死人が語り、一本の木が語りだしと、とてもバラエティに富んでいる。
主要人物は名人と呼ばれる細密画家たち、それから画家の頭領、画家をとりまとめる叔父、その娘、娘に恋こがれる若者などなどなど……、順繰り語り手が変わっていき事件の全容が見えていくるというつくり。
しかし今作ミステリーであってミステリーではない。殺人という事実で話を引っ張っていくけれども、実際に著者が描きたかったのは細密画という文化の過渡期なのだと思います。どれだけ素晴らしい文化だったとしてもいずれ廃れていく――、時が流れ歴史は移ろいひとつの文化はやがて綻び、ゆくゆく埋もれていく――そんな無常さを表しているのだと思われます。
(日本人は浮世絵がイメージとして近い。いつの間にか主流となった写実的な画。その一方で廃れていった浮世絵の過渡期とはなんだったのか? 今でこそ伝統だ文化だ言われるけれども、転換期にぶつかった絵師の苦悩はどのようなものだったのでしょう?)
今作でも西洋の遠近法に惹かれながらも、宗教や文化の違いから手を出すことの出来ない画師たちの苦悩が描かれる。
どれだけ技術が高まりを見せたとしてもひとつの手法には寿命がある。各地で多くの芸術が生まれ、やがて消えていく。当人たちはそうとは知らずに流れのなかでその瞬間を必死に生きる。将来など考えることもなく一身に取り組んだ芸術だけが時を越えて次の時代のなかで遺産と呼ばれ引き継がれていくのでしょう。儚いと言えば、儚い。ただそのなかで時代を超えて残る芸術にはロマンを感じてしまいます。
今作、ミステリとしての惹きつけかたもよかったけれども、それ以上に大きな流れに翻弄された人達の群像劇として読むとしみじみしてしまう。そこには今と同じような感情をもつ人々が生活を送り、今に語り継がれる文化を築いていた。遠い歴史の記憶から、こんな話を書きあげてしまう著者の力には圧倒されてしまいます。
著者はノーベル賞作家ですが敷居は高くありません(ちょっと根気はいりますが)。エンターテイメントです。それも比類なきエンターテイメント。とにかく面白い。

 

わたしの名は赤〔新訳版〕 (下) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (下) (ハヤカワepi文庫)