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オルハン・パムク「わたしの名は赤」 翻訳:宮下遼

 

わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

 

異国情緒あるれる文学  

著者、オルハン・パムクトルコ人作家です。2006年にノーベル賞を受賞しています(トルコ人初)。今作はフランスで最優秀海外文学賞、その他アイルランド、イタリアで文学賞を受賞しているようです。

今作の舞台となるのは16世紀末のイスタンブール。皇帝の命令により秘密裏に細密画が描かれることとなった。しかしその画に関わった一人の画家が殺されてしまう。どうやら原因はその細密画(命令内容)にあるらしい。いったい何が原因なのか? ひとつの絵画を通して当時のイスラム社会の風土、そしてそこに生きた人々が感じたであろう苦悩が伝わってくる作品――

スケールが大きくてとても読み応えのある作品です。なによりも我々日本人にとってはまったくの異文化――16世紀のイスラム世界。描写からもどこか魅惑的な雰囲気が漂ってきます。

細密画と言ってイメージ出来ますでしょうか? 今作の装丁がまさにそれなんですが、西洋の立体感をともなうものと違ってとても平面的。目で捉えるものをそのまま描くのではなく、そのものの本質を描くことを目的としているんです。
偶像崇拝が許されないイスラム。そもそも画家なるもののスタンスは世間からは懐疑的に捉えられ(認められてはいない)高い身分ではない――、故に実験的な画法が生まれるような下地はどこにもないのです。西洋の写実的な画はイスラムでは異端であり、許されるものではなかった。だから細密画家たちは従来とおりの技術を継承し、その技法をつきつめることに情熱を燃やしていた。
米粒に画を描くなど、細密さを求めるあまり晩年には盲目となる画家も多かった。そして盲目となることは一流の画家としての名誉だった(年老いて目が見える画家は馬鹿にされることもあり、盲目を演じる者もいたらしい)。盲目となったならば、それまでに焼き付けた頭のなかの像によって、さらに純粋に描けるものと信じられていた。

 

文化の過渡期……その無常さとは

この作品は「わたしの名は○○」と章立てされて区切られ、その都度語り手が変わっていく。ちなみにタイトル「わたしの名は赤」の語り手は「」――、赤色が話を語り出すのです。他にも死人が語り、一本の木が語りだしと、とてもバラエティに富んでいる。
主要人物は名人と呼ばれる細密画家たち、それから画家の頭領、画家をとりまとめる叔父、その娘、娘に恋こがれる若者などなどなど……、順繰り語り手が変わっていき事件の全容が見えていくるというつくり。
しかし今作ミステリーであってミステリーではない。殺人という事実で話を引っ張っていくけれども、実際に著者が描きたかったのは細密画という文化の過渡期なのだと思います。どれだけ素晴らしい文化だったとしてもいずれ廃れていく――、時が流れ歴史は移ろいひとつの文化はやがて綻び、ゆくゆく埋もれていく――そんな無常さを表しているのだと思われます。
(日本人は浮世絵がイメージとして近い。いつの間にか主流となった写実的な画。その一方で廃れていった浮世絵の過渡期とはなんだったのか? 今でこそ伝統だ文化だ言われるけれども、転換期にぶつかった絵師の苦悩はどのようなものだったのでしょう?)
今作でも西洋の遠近法に惹かれながらも、宗教や文化の違いから手を出すことの出来ない画師たちの苦悩が描かれる。
どれだけ技術が高まりを見せたとしてもひとつの手法には寿命がある。各地で多くの芸術が生まれ、やがて消えていく。当人たちはそうとは知らずに流れのなかでその瞬間を必死に生きる。将来など考えることもなく一身に取り組んだ芸術だけが時を越えて次の時代のなかで遺産と呼ばれ引き継がれていくのでしょう。儚いと言えば、儚い。ただそのなかで時代を超えて残る芸術にはロマンを感じてしまいます。
今作、ミステリとしての惹きつけかたもよかったけれども、それ以上に大きな流れに翻弄された人達の群像劇として読むとしみじみしてしまう。そこには今と同じような感情をもつ人々が生活を送り、今に語り継がれる文化を築いていた。遠い歴史の記憶から、こんな話を書きあげてしまう著者の力には圧倒されてしまいます。
著者はノーベル賞作家ですが敷居は高くありません(ちょっと根気はいりますが)。エンターテイメントです。それも比類なきエンターテイメント。とにかく面白い。

 

わたしの名は赤〔新訳版〕 (下) (ハヤカワepi文庫)

わたしの名は赤〔新訳版〕 (下) (ハヤカワepi文庫)