本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

辻原登「冬の旅」

 とある日に刑務所から出所した男の行方は?

5年の刑期を終え滋賀刑務所から出所した緒方(主人公)の所持金は17万とわずかだった。
大阪の街に戻ってくると辺りを彷徨い、酒を飲んで女を買った。そして博打に手を出してしまうと、わずか3日で金は底をついた。
やむなくドヤ街へ行き日雇いの仕事を求め――、腹が減れば公園の炊き出しにあずかった。寝る場所を求めてシェルターへ行き、定員オーバーならば公園で丸まって寝てしまう。どうしようもない男。冒頭では緒方のそんな「今」が語られる。しかし緒方は好きでこうなった訳ではないのである。
現在→過去(回想)→現在(その後)という作りの今作。描かれるのは転がり始めて、その勢いを止めることのできなかった緒方の人生。そして緒方をとりまく3人の人間――、緒方をメインとしたなかで途中3人の物語が語られる。緒方の人生をより立体的に浮かび上がらせるために脇役の話が挟まれる。
一人は良心によって人生を転落させてしまった男だった。一人は異常な気質によって破滅せざるを得なかった男だった。一人は人情によって取返しのつかない道へと進んでしまった女だった。
誰もが緒方の人生に大きく関わった。しかしその関わりは偶然に過ぎなかった。それなのに振り返ったときには、彼らのせいで緒方の人生が狂ってしまったように思わされる。彼らとの関わりによって緒方が悪い運命へと引きずり込まれたと思わされるのが不思議なところ。
取返しのつかないところにたどり着いてしまった時――、自分のその手で最悪の人生を選んだのだと素直には認められないものなのかもしれない。緒方自身も考える「いったい、どこで人生をつまずいてしまったのか?」と。誰が自分の人生を狂わせたのかと。
緒方の人生は転落というのがピッタリだった。神様のいたずらのように不幸が緒方を手招きした。何もかもがうまくいかなかった。そして何かの不幸に見舞われる度に緒方は「わけがわからん」と呟いて嘆くことしか出来なかった。……呪うことしか出来ない運命だった。
さらに今作では緒方の不幸に合わせて阪神淡路大震災秋葉原通り魔事件などの、人間の理解を超えた災害・事件が起こるつくりになっている。他には地下鉄サリンを示唆する記述もあったりするから、今のこの現実社会を意識させられるつくりになっている。
この社会には人間の無力を意識させられる瞬間がある。あの事件・災害が我々に見せつけたのはこの世界の不条理さ――、一歩先には闇が待っているかもしれない不確かさだったのだと思う。
それらが緒方という一人の人間にのしかかってくるように今作は描くのである。何故か? 何故著者は、不条理にばかりに襲われる男を描いたのか?

 

悪人正機に何を求めたのか?

今作で著者が描こうとしたのは「悪人正機」(悪人こそが救われる)という思想がもたらした一人の男の人生についてです。「悪人正機」に救いを求めた男の人生を描いているんです。
悪人正機……、僕はその思想を正確には知りません。漠然と知っているところでは、それは悪人が優先的に救われるというのではなく、自分の悪に気がつくものが救われるという感じだったかと……。
ただし――、これは僕の勝手な解釈なんですが、主人公・緒方はその思想のもつ本来の意味とはまったくの反対の行動をとったように思えるんです。つまりすすんで悪人になろうとした。悪人正機の本当の思想を知らないからそうしているのか、知っていてあえてそうしているのかは解りません。
言えるのは緒方は何でもいいから救いを求めていた――、ということなんです。悪人正機という思想が(その本来の意味がどうこうは関係なく)希望だったということなんです。
ラストで緒方はひとつの犯罪を犯します。それは人としての一線を越えるような犯罪――、そしてその瞬間に緒方は確かに救われます。人としてこの世の中に繋がるために必要な理性というしがらみを断ち切ったことによって、緒方は人ではなくなった。だからその瞬間は恍惚とし、これまで苦しめ続けられた世の中から逃れることが出来たように思えたはずなんです。

でもその先に何があるのか? 逃れてもなお、生きることを辞めることは出来ない――、その事実を知ったときに緒方が見た世界とはどんな景色だったのか?

 

海外古典の名作にも劣らない力作

暗く重たい話でしたが、強く揺さぶられるものがありました。
最近の日本の純文学はニッチな方向へと進んでいるように感じていましたが、これは王道です。人間とは何か?を考えさせられます。
僕が海外文学を読むのは王道を求めているからなんですが、今作は海外古典の名作にも劣らないぐらいの力作。読後には得も言えない余韻が残されます。本を置いてなお、本に描かれた世界が離れていかない。そういった力のある作品だと思います。

  

冬の旅 (集英社文庫)

冬の旅 (集英社文庫)

 

 

モーパッサン「女の一生」 翻訳:新庄嘉章

箱入り娘がみた夢

自死で生涯を閉じようとしたモーパッサン。今作を読むとモーパッサンが人生というものをどう捉えていたのかが解るような気がする。
今作はプロット自体は現在においてはよくあるもので、将来を夢見る娘(箱入り娘)が大人になり現実を知って絶望を味わうというもの。
貴族の家に生まれ何不自由ない青春時代を送ったジャンヌ(主人公)の前には輝ける未来があるはずだった。ジャンヌは美少年のジュリアンに出会い恋をした。ゆくゆくそれが実って結婚をして人生のレールを順調に進んでいるはずだった。しかしジュリアンは女癖が悪く、金に執着するケチな男だったことが後から解る。優雅に過ごしていたジャンヌの生活は一変し、貴族としてはみすぼらしいものになっていく(ジュリアンが贅沢を許さないために)。ジュリアンに裏切られ絶望を味わったジャンヌは、それならばと子供にすべてを捧げるようになっていく。しかし過剰な愛情を与えたせいか、息子のポールは大きくなっても金の無心ばかりをするようなろくでなしになってしまう。ポールの借金のせいで屋敷を売り払うことになり――、財産がなくなってしまえばポールからの連絡もなくなってしまう、という踏んだり蹴ったりの話です。
最後の最後にちょっとだけ明るい一面はあるけれども、基本的には人生のせちがらさや不条理さに焦点をあてて書かれた作品です。「そうなんだよ人生ってこうなんだよ……」とため息をつきたくなるタイプの、それこそ現実というものを容赦なくまざまざと書く話なので「小説は小説なんだから夢を見させて欲しい」という人には駄目な作品だと思います。

 

不条理を描くために……

現実に辺りを見渡せば身の回りにもジャンヌのような人っていると思うんです。だから我々はこの手の複雑さに苦しむ人の姿は嫌と言うほど見ているはずなんです。だから驚くことではないけれども、小説のなかで一人の女性の人生として悲惨ないきさつを読み続けるのはなかなか辛い――。ジャンヌがすがる希望がことごとく裏切られ、辛い目ばかりに合うというのに、げんなりしてしまう。ただ「現実に生きることの厳しさ」を描くとするならば、理想との違いであり、叶わない願いを描くしかないから、この手の小説はこうなるしかないんです。たぶん。
それが見事に表現されている要因には、主人公ジャンヌの性格にあったんだと思います。ジャンヌは情が深いんです。人の良心を疑うことを知らない。かけた愛情の分、何かが育ってくれると信じている。信仰心があって、神に背くことを恐れている。ジャンヌはとにかく何かにすがっているんです。それが神そのものだとは言わないけれども、神的なもの――、ある意味自分はけっして悪徳なものになびかないから、少なくとも不幸には陥らないでいられるのではないか、という安易な理想を抱いている。それがことごとく裏切られていき、ジャンヌは打ちのめされ絶望の底に沈んで行くわけなんです。
コントラストを効かせるためによりつつしみ深く、人生を肯定的にとらえている人間を描いてあえて落とす。だから読んでいるこちらも受けるショックが大きくなる――、というつくりになっているんでしょうね。
悪人でも善人でも関係ない。むしろ悪人が善人以上に何かの恩恵を享受しているなんてのは、よくある話かもしれません。そうであったなら――、我々は何を拠り所に生きていけばいいのか。考えれば考えるほど絶望しちゃいます。
モーパッサンは最後に、それでも人生をやっていかなければならないという意味で、とある一文で締めくくるんです。それはごくごく当たり前のことなんですが、長々とこの作品を読んだ後だと強く心に沁みてくる。そうだよなーと絶望を抱えながら生きていくしかないと、思わされるんですよね。
どんよりと沈みたい気分の方に、おすすめの一作です――(?) 

 

女の一生 (新潮文庫)

女の一生 (新潮文庫)

 

 

J.M.クッツェー「恥辱」 翻訳:鴻巣友季子

デヴィッドが捨てたもの

南アフリカケープタウンで大学教授をやっているデヴィッド。彼は二度の離婚を経験し、今ではもう結婚には興味がなくなっている。性欲は娼婦で満たせばいい……、そんな考えに落ち着いていた。しかしある日にデヴィッドは一人の女生徒に惹かれてしまう。彼は理性的であろうとしながら、結局は女生徒を手籠にしてしまう。
その事実は教授と学生という関係上スキャンダルになった。デヴィッドは周囲から叩かれ謝罪を求められた。大学側は体裁があることだから世間が納得するように、どんな形であれ謝罪してくれとデヴィッドに頼んでくる――、そうすればこの先も大学に席を置いてやると、なかば脅しをかけてくるのである。
デヴィッドには言い分があった。彼の女生徒への想いは本気だった。だからデヴィッドは大学を辞めることにした。謝罪など彼のプライドが許さなかった。形式ばかりを求める社会に嫌気がさしていた。そして大学を辞めてしまうと田舎で農園を営んでいる娘ルーシーの元に身を寄せるのである。

 

デヴィッドは田舎で何を見たのか

田舎へ暮らすこととなったデヴィッドだったが、彼はそこで営まれる惨めな文化を蔑んだ。知的水準の低さに辟易としていたのである。都会の文化に馴染んでしまったデヴィッドにとっては田舎での生活は耐えられなかった。彼の意識だけはあいかわらず文化的で現代的であるとの自負があった。
ただ娘のルーシーは奮闘して農園で生計を立てようと頑張っていた。彼女は泥臭い暮らしだが実直にやることで確かな生活が築けると信じていた。デヴィッドは協力しなかった。彼は相変わらず飄々とした生活を送っているのである。
ある日に悲惨な事件が二人に襲いかかった。南アフリカの田舎ではまともな治安など維持されていなかった。貧困がもたらした野蛮な暴力に巻き込まれてしまうのである。
その事実に打ちのめされてしまった二人。デヴィッドはルーシーに、こんな生活を続けるべきではないと訴えた。しかし彼女はショックを受けながらも頑なにこの生活を守ろうとする、という感じ。

 

デヴィッドは恥辱を受けたのか?それとも……

都会の文化的生活と田舎の非文化的生活……こう書くと語弊がありますが、今作で扱っているのはまさにそこに現れる格差なんです。南アフリカという舞台を考えるとその差は相当大きいのだと思われる。言い過ぎかもしれませんが秩序と無秩序くらいの差があるのかもしれません。
この小説ではデヴィッドが都会を象徴し、ルーシーはどちらででも生きられるなかであえて田舎を選択する。彼女は田舎を象徴するというよりは都会を否定する者として存在する。地に足をつけた生活にこそ人の幸せがあるのではないかと信じている。
都会と田舎……どちらが正解ということは無い。ただし日本のような安全な国に住んでいる者にとっては危険を顧みずに田舎を選び続けるルーシーの気持ちは理解しきれないものがあるかもしれない。
読者である僕自身、野蛮な非文化な中で生活を送れるかと問われれば、きっと断ると思う。都会の秩序のなかで安心して生活をしたいと願うと思う。いや、もっと露骨かもしれない。卑しさや野蛮さが残る田舎の文化に眉をしかめるだろうし、蔑んだ目を見てしまうかもしれない。
デヴィットの感覚とはまさにそんな感じだった。比較するとはっきりと分かるのだけど……、デヴィットは大学のスキャンダルの時には声を荒げることすらしなかった。彼は平然としていたのです。むしろ彼を糾弾しようとする奴らを罵るように、自分が築いた生活を捨て去る道を選んだのです。プライドを大切にして、そのまでの日常をあっさりと捨て去ってしまうのです。
ここで何が言いたいかと言うと――、都会の生活はまだ捨てることが出来る余地があるということ。
しかし田舎はどうなのか? 今作の秀逸さはここでのデヴィットの態度によって、それを明確にしたことある。彼は事件の後、田舎の実体を知って声を荒げるのです。大学のスキャンダルではあれだけ冷静だったのに、彼はヤケになり真っ向から田舎を否定する。彼は露骨に嫌悪を表すのです。叫んでまでもそれらの否定するのです。
デヴィッドとルーシーの価値観は交差する。この二人に関してはどちらが正しいということはない(二人には選択肢があってどちらかを選べる立場にいる)、一方でそこでは選択肢がない者の姿だけが明らかになる。取り残されたどうしようもない人達の姿がチラついてしまうのです。そこで生きざるを得ない者はどうすればいいのだろうか。
僕はデヴィッドを否定するつもりはない。僕もデヴィッドと同じ選択をするのだと思う。その時には仕方がない――、理性的な選択だろうと自分を納得させるのだと思う。「安全を選ぶこと(自分は選べるのだから)の何が悪いというのか。それを選択するのは当然ではないか」そう言いつつも、そこに感じる何かしらの罪悪感こそが今作が浮き彫りにしたものなのだと思う。
「恥辱」――、このタイトルに著者が込めた思い。読めばあれこれと考えさせられることになる。デヴィッドは恥辱を受けたのか? それとも恥辱を与えているのか? 

 

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

恥辱 (ハヤカワepi文庫)