本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

プラトン「パイドン」 翻訳:岩田靖夫

プラトン(紀元前427-紀元前347)著「パイドン」を読みました。今作のジャンルは哲学です。さて、どう感想を書いたものやら……、というのが率直な今の気持ちです。僕は哲学に関して知識はありませんので「何がどうだ」と書けるわけではありません。今作を読み終えた今、思い返してみてもこの本に何が書かれていたのか具体的には言えません。なんとなく解ったような気にはなったのですが正確なアウトプットなんてとても無理です。なのでこれはド素人がプラトンの著作を読んでとりあえず何かを書こうと試みたフワフワでスカスカの感想だと思っていただけるとありがたいです。
以下感想です。

死刑を宣告されたソクラテスにとっての最後の日、牢屋の前には多くの弟子たちが集まりました。
ソクラテスは笑っています。弟子たちは悲痛な顔をしています。
死ぬことが怖くないのですか?と問う弟子に対してソクラテスは「肉体は滅びても魂は滅びない」「死んで魂になることは良いことだ」と言うのです。そんなわけは……と思う弟子たちに対してソクラテスは、その訳を説明します。

生きる者はやがて死にます。これは生きとし生ける者に課された宿命です。では死んだらどうなるのか? 人は魂となり冥界へと旅立つことになります。
どこかの宗教で語られるような話だと思ってしまいます……。
ただし、前提として生は死ととなっていて、生きるものは死ぬ、死んだものは生き返るということのようです。よって冥界に行った魂はしばらくした後に再び肉体に宿り生き返ることになる、とソクラテスは言います。
理由としては生きている者が死にっぱなしだったら、生きている人間の数は減る一方でその内人間はいなくなってしまうだろう、という訳なんです。
納得出来ませんね。肉体が滅びてバラバラに分解されてしまって、それらが世の中で再び使われるというなら話は解る。しかしソクラテスは肉体と魂を分離して、魂だけがリサイクルされるというのです。

釈然としていない弟子たちを見てソクラテスは話を続けます。何故、人間は物事を知ることが出来るのか?と。
ここで「想起」という考えが出てきます。プラトンの哲学では大切な考え方のひとつで「想起論」と言われるようです。
ソクラテスは「人間が何かの知識を得る時――学んでいるのではなく、思い出している」と言うのです。
ちなみに「想起」についてはプラトンの著作「メノン」で詳しく書かれているのですが――、人間はその昔、神と一緒に天の高みを目指していたけれども、途中で脱落して地上に落ちた。だから人間は地上にいるけれども神の世界を少しは知っているということのようなんです(でも人間として生まれるときには忘れてしまう)。
現在においてこんなことを言われても、うさんクサイ!となりますが、これが書かれたのはあくまでも紀元前(ギリシア神話にからめたイメージなのだと思います)。
それから「メノン」では数学の答えの導き方が始めから知っているのかのようだと示して、一から学んでるわけではない!というエピソードが出てきます。
忘れているだけで知っている。思い出している。
なるほど……、確かにこの想起というやつは考えれば考えるほど、不思議な気がします。例えば、人は何故言葉をつくることが出来たのか?――名詞はいいとして接続詞ってどうやって出来あがったんだろうか?とか、数学の定理というものは何故定理とすることが出来たのか?とか、そもそも公理(誰もが正しいとすること)とは何故公理として成り立てるのか? とか考えるとキリがないのですが、何かに導かれているのではないか(そもそも知っていたかのような錯覚)と思わされることがアレコレあります。
話は脱線しているので元に戻します。
ソクラテスは知っているのは魂だから人間は想起できるのだ!と言いたいのです。証明として、想起できるのは魂が不変であるがゆえということ。人間と魂が同時にスタートしたのであれば想起なんて出来ない、だから魂は先にあるという背理法です。これで弟子たちの大半は納得します。

しかし2人ほど納得していない弟子がいて議論はさらに深まります。
その内の1人はソクラテスに聞きます。
【その前に……まず魂は非合成(物体ではない)、肉体は合成(物体)という前程があります】
質問はこうです。例えば竪琴が肉体、奏でるハーモニーが魂のようなものだと思うのだけど、2つは調和しているからこそ音がでる。でも竪琴が壊れてしまえば音は出ない……、ということは魂もまた肉体が滅びてしまえば失われるのではないか?と聞くんです。
ソクラテスは「それはもっともらしく聞こえる」と言います。しかしもっともらしいから人は間違いをおかしてしまうとも続けて言います。
結論から言うと、それは間違いだとソクラテスは切って捨てます。「想起」という考えがあるにも関わらず「調和」というもっともらしいモノを持ち出して考察を進めたから、おかしな結論になってしまうということで――、スタートが違えば答えも違ってくるということなのだと思われます。前段で「想起」で納得しているのに、その「想起」をスタートにしていないではないか? ということなんでしょうね。論点をズラしてもっともらしい反論をする、これは現在でもよくあることだと思います。そういう場合は立ち返って何について話をしているのか整理する必要があるのかもしれません。

次に、もう1人の質問はこうです。
魂が繰り返して人間に宿るのはいいとして、それが不死であることは証明されていない。もしかしたら今回が最後で疲れ果てて滅びるかもしれない、と。
ここでソクラテスイデア(まさにそれであるところのそのもの)という考えを示します。かの有名な「イデア論」です。形而上の我々がとらえきることの出来ない真の形。例えとして「大きい」と「小さい」のイデアはどういうものか……
A君:190㎝  B君:170㎝  C君:150㎝
A君はB・C君より大きい。
B君はC君より大きい、でもA君より小さい。
C君はA・B君より小さい。
A君は2人より大きい。C君は2人より小さい。B君は1人より大きく1人より小さいということになる。
ということは大きい小さいは相手によって変わるので相対的ということになる。これで一件落着だ……、とは残念ながらならない。確かに大小は相対的に決まるのかもしれない。
でもその前に……、150㎝より190㎝が大きいと何故言えるのか? もちろん大きいから大きいのだけれども……、そもそもそれを大きいとすることの出来る我々の感覚は何なのか? これこそがイデアにある原型――それであるところのそのもの、なのだと思う。

火は熱い。雪は冷たい。これは「火」「熱い」「雪」「冷たい」のイデアの関係性(結びつき方)を表しています。
雪は冷たいに結びつくけれども、熱いとは結びつかない。もし雪に熱いが近づくと雪は溶けはじめる。つまり雪は撤退することになる。これは消滅ではなくそのイデアが立ち去るということらしい(うーん。雪の例えは解り難いかもしれない……、これでは立ち去るというよりも消え去るように思えてしまう……、今作では火と雪での解説が試されているんだけど)。
ちなみに先ほどの「大きい」「小さい」で言うと。B君からA君を見ると「大きい」イデアがやってきて、C君を見ると「大きい」イデアが撤退して「小さい」イデアがやってくる――、そんな感じなんだと思われます。
最後に生と魂の関係ですが、この2つは強く結びつきます。冒頭で書いたように死から魂は離れ、再び生まれる者に魂は宿るわけですから互いを必要としているわけです。
そこで死との関係はどうなのか? 死は魂にとっては上の例えでいくところの反対概念であるから結びつけない――、だから魂は死ぬことはない。故に魂は不死であるソクラテスは言うのです。
解ったような、解らないような……

この後、ソクラテスは弟子たちの前で毒杯を飲み干して話は終わります。躊躇なく毒を飲む姿でもって自らの魂が解き放たれる様を弟子たちに見せるのです。

 

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 

 

アンドレ・ブルトン「ナジャ」 翻訳:巖谷國士 

美を追求する姿勢

ひらめき、勘、直観、予感、第六感、etc…… ある時にふと、自分の行動はそんなものに導かれているのではないか? と感じてしまうことは誰にでもあるのだと思う。著者アンドレ・ブルトンシュルレアリスムという思想の生みの親のようだが、新しい芸術の方向性としてただの現実ではなく、もっとこうひらめき的な現実(我々が現実と思っているものよりも、もう一段階上にある現実)を重視しようとしていたようです。
言葉が未熟でごめんなさい。ここら辺は詳しい人におまかせします。

ブルトンの本当に求めたシュルレアリスムの形とは「一切か、無か」という究極のものだったようです。その意味では、この本はどちらでもないのかもしれない。ただし芸術において「一切か、無か」というものが本当にあり得るのか。
……伝わってきたのはブルトンが美というものを追及する姿勢。ずいぶんと真摯だった様子がうかがえる。

シュルレアリスムを体現する女性

もう少し内容に触れながら書いてみます。
これは著者ブルトンが出会った一人の女性についての話です。
ある日、パリ市街を歩いていたブルトンが向こうから歩いてくる女性に気がついた。その女性は化粧に失敗したのか目の下が真っ黒だった。直観的に惹かれてしまったブルトンは思わず声をかけてしまう。その女性は美容室に行くところだったよう。しかしブルトンの誘いにのって、その後で一緒にカフェに行くことになる。その女性は名前をナジャと言った。それはロシア語では希望の初めの部分なのと彼女は言った。
目の下の黒さ、ロシア語のくだりの謎めいた感じ、そしてナジャという名前(偽名)。この不思議さにブルトンの直観が惹きつけられたのだと思われる。ブルトンの求めていたシュルレアリスム体現するかのような女性――、それがナジャだった。
事実、この後でブルトンはどんどんナジャに惹かれていく。例えば、ナジャと2日後に合う約束をしにも関わらず、待ちきれなくなってしまいナジャを求めてパリの街をさまよってしまう始末。
ある時にブルトンは興味を持ってもらおうとナジャに自分の本を与えるのだが、彼女はあっさりと「これは死ね」と言い表してしまう。それが正解かどうかは別として、ブルトンはナジャの発言に翻弄され続ける。ナジャにこそ求めるシュルレアリスムがあるのではないか? その思いに囚われてブルトンはナジャから抜け出せなっていく。

この小説の不思議なところはシュルレアリスムを求めるブルトン自身は現実側にいるということ。ナジャにこそシュルレアリスムが体現されているとして――、ブルトンは現実側との橋渡しの役目を果たしていることにある。そしてブルトン自身がそのことに気がついているという事実が、この後ブルトンをどんどんと引き裂いていく。そこがこの小説の魅力であり、どうしようもなく悲しいところかもしれない。

「ライオンの爪が葡萄の胸をしめつける」「自分の考えることに自分の靴の重みを負わせない」「わたしの呼吸がとまると、それがあなたの呼吸のはじまり」
それらの言葉はブルトンを更に深い場所へとナジャにのめり込ませていった。
しかし、ブルトンは次第に解らなくなってしまう。知れば知るほどナジャとの溝は深くなっていく一方だった。
そしてふと思う、自分はシュルレアリスムの価値ある体験の場にいるのだと妄想しているだけではないか? 自分にだけはその資格があると思いこんでいるだけではないか? 無防備でみじめなナジャという女を自分は利用しているのではないのか?――、と。

ナジャはこの後で、行きつく所に行ってしまう(今さらネタバレを気にしても仕方がないけど、表現は濁します)。

ナジャの破滅を知ったブルトンは相変わらず現実側にいる自分を嘆き、自分の求めた美とはいったい何だったのかを考えはじめる。そして出来れば自分自身をもう一度、ナジャが感じていた世界と似た無意識のなかに叩き落としてくれないかと願い求める。ここら辺は僕には理解し切れないけれども、その切実さには胸を打たれるものがある。
あくまでもブルトンが求めたのはシュルレアリスムという美そのものだった。そして同時にその体現であったナジャを深く愛していたことに気がつくことになる。

僕は正直なところ解っていない。見えそうで見えなかった。読み進めていると常に反転する何かのイメージがそこにはあったように思える。それが何なのか……、これに関してはずっと謎のままだと思われる。
ブルトンの「シュルレアリスム宣言 溶ける魚」という本を入手しました。こっちも読んでみようと思います。

  

ナジャ (岩波文庫)

ナジャ (岩波文庫)

 

 

チェーホフ[桜の園] 翻訳:小野理子

生まれながらのサラブレッド・ラネーフスカヤ

チェーホフのなかで一番好きな作品です。再読しました。

読み返すのは久しぶりでしたが、以前にはあまり目が向いていなかったことが見えてきた気がしました。
我ながら驚きだったのですが……、桜の園の主人であるラネーフスカヤって、かなりどうしようもない人として描かれていたんですね。
以前は、ラネーフスカヤの持ち前の優雅さに気をとられていたせいか、あまり気がついていなかった……
みんなの反対を押し切って弁護士と結婚したまでは良いとして――、その後、夫に先立たれてしまうとすぐに他の男にのめり込む。あげく七歳の息子を溺死させ、悲しみに耐えきれずに男とパリへと逃避行。
地主であったにもかかわらず、収入を得る手立ては何も行わず――、男と散財、散財、散財。あげくの破産。
最終的には男に逃げられて、ようやくロシアに帰ってくる。まったくの駄目人間。一般的に言えばしょーもない女主人なのでしょう。しかし、いったい何が当時の僕の目をくらませていたのか……、それはラネーフスカヤの圧倒的な優雅さだったのだと思われます。
ラネーフスカヤってお花畑の住人なんですよね。生まれながらのサラブレッド。
こればかりは成金がどんなにあがいても手に入れられない優雅さ。例えラネーフスカヤがアホな男にのめり込んだとしても、それは庶民の色情の迷いにあらず。いや、痴情だとしてもそれすらもお上品に思えてしまう。
なんだろうな……、何もかえりみずに散財してしまうのって、無自覚だからこそ成せるんだと思うんです(もしくは正真正銘のろくでなしか……)。
テレビなどで見る生まれながらの金持ちお坊ちゃん・お譲様って金銭感覚が違うじゃないですか。最初こそ嫌味だなーと思うけれども、見ているうちに「あれれ、こいつは違うぞ。本物だ!!」ということがあるでしょう。
ラネーフスカヤはまさにそれ。しかも財産を失って自らがジリ貧になりながらも、求める者には施しをしてしまうあたりが、もはやそーゆー人間として出来上がってしまっている。
おそらく、あの手の優雅さこそが庶民にとっての憧れなんでしょうね。庶民が王族・貴族に憧れるのは金銭的な無いものねだりというよりは、あの高貴な精神が得難いものだと解っているからなもかもしれません。

 

伝わらなかったロパーヒンの思い

次に、この作品の主役のひとりである、実業家のロパーヒン。
ロパーヒンは再読でも、僕のなかの印象はほとんど変わらなかったかもしれない。どうでしょう。ロパーヒンは悪者でしょうか?
「今日から桜の園の主人はこの俺だ!!」
自らの手に桜の園をおさめた後、こんなことを言ってラネーフスカヤを傷つけますが――、僕にはこのシーンは、ロパーヒンが何かに引き裂かれてしまっているように思えて仕方がない。
冒頭でロパーヒンは小さい頃に、ラネーフスカヤが農民である自分にも分け隔てなく接してくれたことに感謝しているじゃないですか。ほっこりと昔話を語るわけですが……、きっと庶民・ロパーヒンにとっての憧れがラネーフスカヤだったということですよね。だからロパーヒンは大きくなり実業家として成功をおさめてからは、親切心から色々とラネーフスカヤにアドバイスをしたはずなんです。
このままじゃ破滅します!! なんとかしましょうよ……、と。それもこれも、ラネーフスカヤにはいつまでも優雅なラネーフスカヤでいて欲しかった、ということの裏返しだと思うんですよね。なのに聞かないラネーフスカヤ。何故ならば彼女の頭のなかはお花畑だから……。
ロパーヒンは悔しかったんだと思うんです。何故、解ってくれないだ! あなたにはあなたでいて欲しいのだ! しかし、その為には桜の園を切り売りしなければならないじゃないか!
ここら辺の人物の描き方……、見事ですよね。結局、お互いは解りあえないんですよ。そもそもが根本的に違うんですもん。でも、何が胸を打つかというと、互いは解りあえないのにそれぞれは自分の世界のなかだけでは正しくあって――、自分の生き方をまっとうしていることなのだと思うんです。
そこで生まれてしまうすれ違いは、どうしようもないことだから、これぞ人間のおかしさであり、同時に苦しみなのだと思われる。
ラネーフスカヤは愚かだけれども、それは庶民の尺度での愚かさであって、優雅であること自体は少しもブレることはなかったのだと思う。
逆にロパーヒンは自分の思いが伝わらなかったことが悔しくて――、いつまでものほほんとしているラネーフスカヤが腹立たしくて「桜の園の主人はこの俺だ!」と叫んだのだと思うんです。
その瞬間のラネーフスカヤの悲しみの表情にロパーヒンは何を見たのか……
ここら辺はたまらない。色々な感情が含まれているように思えるから、グッと胸を突かれる感じがあるんです。
これは僕の勝手な解釈に過ぎませんが。

  

桜の園 (岩波文庫)

桜の園 (岩波文庫)