本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

オラシオ・カステジャーノス・モヤ「無分別」 翻訳:細野豊

真実という重み……

翻訳者によるあとがきを読むと、この作品の持つ重みが変わってくる。この作品の内容はとある男が千百枚にも及ぶ虐殺の記録原稿を整理編集するというもの。その虐殺というのはグアテマラで36年間という長さに及ぶ内戦の中でマヤ族という民族に行われた虐殺。軍がひとつの民族を根絶やしにしようとした事実。記録によると626の村が破壊され、死者・行方不明者は20万人以上。避難民150万人。国外避難民15万人。総人口の1000万人のうち20%が被害者となった――、という事実を元にした話なんです。終結が1996年だから、ついこの間のこと……、さらに辛い事実として虐殺の実行犯たちは今なお権力の座に居座り裕福な生活を享受しているのだとか……。

 

反転して見えてくるものがある

ちなみに作中にはそれらの描写(事実の詳細の描写)はありません。描かれていたのは千百枚におよぶ虐殺の記録があるということ。主人公がそれを整理編集する役割を担っているということ。大きなところではそれだけだったように思えます。
むしろ著者は悲惨な真実を隠すように描いていたフシがある。何故か? おそらくそれを描くとしたらあまりにもおぞましく陰惨な読み物になってしまうから避けているのだと思われる。違うアプローチでこの事実を伝える方法はないか――、その過程で生まれたのが今作だと思われます。
というのもこの小説の味わいは「滑稽」なんです。虐殺の記録を読む主人公の精神がむしばまれていく姿を描くのですが、話が進むにつれて主人公がありもしない妄想にとらわれていく姿が面白いんです。先日読んだトマス・ピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」と似ていてパラノイア(精神病の一種、偏執的になり妄想にとられていく)をテーマにして描いているのだと――、僕は最後の1ページを読むまでは思っていました。
でも、そうではないんです。主人公の妄想は妄想ではなかった。事実との境目は曖昧なんですが、ただの妄想ではなかったことが明らかになるんです。
「あれ、マジで?」それから僕は少しポカンとした。で、あとがきを読んでさらに驚いた。というもの今度は小説世界を越えた現実での反転が起こっている……、おそらく全てを計算した上でやっているのだと思われる。この作家さん、すごい力量です。
ややこしいのでもう少し説明を。ラスト1ページでの反転は読者の思い込みを反転させるんです。いわゆる驚きですね。「ラスト1ページの衝撃」みたいなあおりがありますが、その手の驚きです。そして次なる反転――、こっちの方はこっそりと潜ませている。事実を知る人が読めばすぐ解るのだろうけど、知らない人はずっと知らないままなんだと思う。ただし知ったならばギョッとする。
こっちの反転は明暗の反転。暗がりにあって見えなかったものが明るみに出てくる。驚きは驚きでもこっちは価値観に訴えてくる。それまではこんなに暗い話をよく滑稽な味わいで書けるものだと関心していたのに、事実を知ると「よくコノ事実を滑稽に書けたものだ!」とビックリしてしまう。小説のもつ意味合いがひっくり返り、そうなった原因(虐殺という事実)に意識が向いてしまう。滑稽であればあるほど陰惨とのコントラストがつくという作りなのだと思う。この振れ幅の大きさこそがこの小説の隠された味わい。窓から眺めていた世界が本当の世界ではなかった、という手の味わい。

 

中南米文学には風土が生む血肉を感じる

世界には凄い作家さんがいっぱいいますね。この作家さんはエルサルバドルで育って、メキシコ、グアテマラでジャーナリストや編集の仕事をしていたらしい。
出自の影響なのか作風はやはり中南米っぽく――、幻想的で詞的。それから向こうの熱い血のようなものや、何故だか解りませんが原色をイメージしてしまいます。ここら辺は風土が違えばこそ生まれる何かで日本人には出せないものだと思われます。中南米文学は毎回だとげんなりしそう(疲れてしまいそう)ですが、時々読む分には刺激的で自分のなかのどこにあるのかも解らないあたりの血がたぎります。生命力でしょうか。それとも文章を介して伝わる肉感や皮膚の色。白人とも黒人とも違う(もちろんアジアでもない)独特の雰囲気。
図書館で装丁に惹かれて手にした一冊でしたが、予想以上に面白かった。返却するときにまた中南米文学の棚に行って他の著作も探してみようかな(いや、もともとガルシア・マルケスコレラの時代の愛」を借りようと思っていたから今度はそっちかな)。

  

無分別 (エクス・リブリス)

無分別 (エクス・リブリス)