本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」 翻訳:福田恆存

とある老人の尊厳の物語

再読です。僕の心のなかにある「いつか読み直したいリスト」の上位にあった今作――、ヘミングウェイと言えば、まっさきに思い浮かぶ今作。人気作家故にいろいろと揶揄されるヘミングウェイですが――、しかしヘミングウェイという名前はもはやアメリカ文学の古典として揺るぎない地位を占め、読んでみればそのふところの広さを味わうことが出来る、まさにアメリカらしいアメリカ文学

あらためて読んでみての感想ですが、これは尊厳の物語なのだと思いました。八十五日間漁に出て、何も獲ることが出来なかった老人は、腕が衰えもはや漁師としては終わりを向かえたかのように見られていた。これまでずっと老人に付き従っていた少年は、両親の手前、これ以上老人一緒に漁に出ることは出来なくなり(魚を獲れなくて生計を立てられないから)――、この頃、違う舟に乗るようになった。
少年からは「今度魚を獲ってきてあげる」と心配されるようになり、老人はその好意を受けつつも、まだ漁を諦めたわけではない。そして再び漁に出た老人は、遠く沖へと出た。
その日、餌に食いついてきたのは、これまでに出会ったことのない大きなマカジキ――、誰もが驚く、老人の舟よりも大きなマカジキだった。マカジキと老人との戦いは四日間に渡った。マカジキによってさらに沖へと引っ張られることになったが、なんとか老人は戦いの末マカジキを仕留めることが出来た。しかし今度は港へを戻るために舟を走らせていると、鮫が群がってきてマカジキはどんどんと食われていく。ヘトヘトになりながら鮫との戦いを繰り返す老人だが、ようやく港についた頃にはマカジキは骨だけになっていた――、やっとの思いで家に帰ってきた老人は疲れ切った体を横たえた。そして眠りについた老人はライオンの夢を見るのです。

 

まだやれると確信した瞬間

今作、老人の夢のなかでライオンが三回も出てくるのですが、これはシンプルに老人自身がライオンなのだ――、を現しているのだと思う。周りでは老人は漁師としてもう終わったと思っている。しかし、老人はまだ向上心を持っている。体力もなくなり食も細くなり、なにかと少年に心配される老人だけれども、ただ老人の誇りは地に落ちかけながらも、未だ羽ばたくことを求めている。
老人はある意味、自分でも自分自身を疑いながら漁に出る。まだ出来るのか?いや出来るさ、と自問自答を繰り返しながら舟を沖へと走らせる。そもそもこの話、ほとんどのシーンは「老人が一人舟の上にいる」なので、対話の相手はおのずと己となる。ここに来て、これまでに釣りあげたことのないほどの大魚――、その思いがけない相手を前にして、これまでの老人の生と、これからの生に対して問いを繰り返すのである。つまり老人は人生の終盤を向かえているわけですが、その生き方がどうだったのかを一匹の大魚を通じて表現されるというつくり。
マカジキに対しておまえは俺だと言い、俺がおまえを殺してやると言う。これほどの見事な魚を殺める資格が自分にはあるのか?と問い、その答えのない問いをつぶやき続ける。戦いは四日間にも渡って、手から血を流し、疲労で精神は朦朧とし、とにかく限界と言えるところまで老人は追い詰められる。それでもどこかで冷静さを保ちながら、自身の生の集大成――、あるいは矜持、それこそ信じてくれている少年にまだやれることを示す為に戦い続ける。そして老人は最後に勝利を得る。まだやれることを確信した瞬間――、喜びに満ちあふれた瞬間がやってくる。しかし帰路、マカジキは鮫に喰い尽くされて港につくころには骨だけになってしまう。人生の良い時は続かない――、と老人は嘆くわけです。

 

ただ前へと歩み続けるしかない

人生の不条理をあらわした作品、と言われる今作――、確かにそういう一面はあるんだと思います。しかしそれだけではないと僕は思う。この老人の場合、物質的に何を得るかよりも、精神的に何を得たかのほうが大きいと僕は思う。経験の豊富な老人にとって、つかの間の喜びに終わったという事実は、人生の世知辛さをあらためて認識したに過ぎないのではないのか。
もし何かがあるとすれば少年に希望を示せなかった歯がゆさであり、一緒に祝杯をあげる機会を失った心残りでしょう。それよりも、まだやれるのかもしれないという手ごたえがあったからこそ、老人は打ちのめされてなおライオンの夢を見ているのだと思う。何度叩きのめされても前進し続けるしかない――、良い時ばかりは続かない、という当たり前さに対して何の疑問もはさむことなくそのまま受け止めることにこそ、生きる力が生まれるのかもしれない。人生はただ前に向かって歩み続けるしかない、それしかないんだ、と言われているように僕には思えた。

  

老人と海 (新潮文庫)

老人と海 (新潮文庫)

 

 

プラトン「ゴルギアス」 翻訳:加来彰俊

今作のテーマは弁論術について

プラトン著「ゴルギアス」を読みました。ゴルギアスとは人の名前――、古代ギリシアにおける弁論術の第一人者です。彼は多くの生徒を教えていて「弁論によっていかに人々を従わせることが出来るか」の技術を磨いていた人物。
ということで今作のテーマは「弁論術の本質と是非」が問われる話。
プラトンの著作と言えば「知について」「エロスについて」「徳について」「魂の不死について」など、どちらかというと形而上(感性的経験では知り得ないもの)の究極を目指す話が多いのですが、今作は「弁論について」――、なので身近であり少し生々しい内容でした。

 

弁論術とは何か?

まず今作で言う弁論術とは何なのか? あとがきを読むと「弁論とは人々を説得させる能力のことであり主に政治の術として民会や政治集会において人々の心をつかむ技術として使われたもの」ということが書かれている。古代ギリシアアテナイでは民主制が採用され人々が意見を交わす場所があったようだが、それらの場所で雄弁に語って人々を説得できる者こそが、ゆくゆく頭角をあらわしていき立身出世ができたらしい。だから誰もが弁論術を学びたがった。その能力があればこそ地位や名誉を築くことが出来ると当時の人々は信じていたようです。
口が達者――、加えて何かしらの魅力を感じさせることのできる人という感じなんだと思います。どうでしょうか……、これは2400年前くらい前の古代ギリシアでの話ですが現在に通じるものがあるように思えます。昔も今も人間ってやっていることはあまり変わらないのかもしれませんね。

 

ゴルギアスという人物

今作はソクラテスとの対話というスタイルで話は進んでいきます(対話編です)。その相手こそが弁論術の使い手たちで――、ゴルギアス、ポロス、カルリクレスという3人になります。ゴルギアスは弁論術の大家です。彼はかつてペロポンネソス戦争(紀元前427年)で祖国が存亡の危機に立たされたときに、外交使節団の首席代表として同盟国へと派遣され――その時に持ち前の雄弁さでもって隣国を説得して祖国を救ったことがあるんです。市民からもその活躍で広く知られた人物なんです。
上では弁論術は出世の手段……的に書いてしまったので悪い印象を持たれたかもしれませんが、ゴルギアスに関しては弁論術の不正な使用に関しては「これを戒めるべきだ!」という立場です。ゴルギアスはちゃんとしているんです。正義のために弁論術を使うべきだ、と徹底していた人物なんです。
しかしソクラテスとの対話のなかで「正しいことをするために弁論術を学んだのに、それを恣意的に不正につかう人間がいるのは何故か?」という矛盾をつかれて沈黙してしまうんです。弁論術こそ正しく価値があるとしていたにも関わらず、それを意図的に不正に使用しているものがいることをおかしいではないか?とソクラテスは言うのです。真に正しいことを学んだならば、その後不正を行う者にはならないはずでは?という問いです。

 

ポロスという人物

ここでバトンタッチをして出てきたのが弟子であるポロスという若者です。ポロスの反撃はこうです。弁論術を駆使しているものこそが思い通りに世の中を動かしているではないか――、事実を見たときに、それこそが正しさではないか? つまりポロスに言わせるならば幸福はつかみ取らなければならないものであり、現実ではそう答えが出てしまっている――、弁論術で権力を得た者が人生を謳歌しているのに対し、要領の悪い者の人生は幸福ではない――、それらに関してはどう説明が出来るのか?と。
ポロスの価値観は善悪ではなく現実がどうかということ。弱肉強食の世界のなかで力のあるものが弱者を従えているのが実際だ――、これに対してはどう答えるのか? というわけです。
ソクラテスはここで「不正を行うのと受けるのでは、どちらが不幸なことか?」と問い――、それは行うことなのだと教え諭します。
実は今作でのポロスの立場はとても中途半端――、この人物が象徴しているのはゴルギアスと、この後で登場するカルリクレスの中間に位置していて、ごくごく一般的な感覚の持ち主という感じです。というのも最初こそソクラテスに反論したもののポロスにはどうやら世間なみの道徳意識があり、自らの意思を貫くことができないのです。世の中は弱肉強食だ、と言いつつもどこかで「うーん」と悩んでいる感じです。

 

カルリクレスという人物

ここで見るに見かねてで出来たのが最後の刺客であるカルリクレス。カルリクレスは「ポロスは心に思っていても、あえて口にはしなかったのだ」と言い――、権力こそが全だっ! と今一度ソクラテスに噛みつきます。カルリクレスに言わせれば「ポロスの倫理観が不正を行うことを醜いと認めただけで事実は違う」――、強者が弱者を支配して力に見合った分を余分に取るのが正しいと言うわけです。これは「自然の正義(摂理)」という価値観らしく、原則として人間社会の真理であると言うわけです。一方で弱者は自分が無能であることを逆転させて不正を受けることの正さを訴えている――、例えば卑屈さを忍耐と置き換え、臆病を謙虚と置き換え、本質から目を背けているとカルリクレスは言うわけです。
ただしソクラテスはその後の対話のなかでカルリクレスをも論破します。弁論術とは所詮「経験」であって語りかける相手に迎合しているに過ぎないことをカルリクレスに解らせるのです。「経験」はそのものの本性や原因についての知識を必要とするものではなく、それまでに学んだことから引き出した推測によって相手を納得させるものです。つまりはその時々で変わるもの――、弁論術など「確かなものではない」ということを解らせるのです。
ただしカルリクレスという人物は今この時に政治家として活躍していて、まさに現在弁論術によって生計を成り立たせている人間――、だから論破されながらもソクラテスの言うことを認めません。最後の最後まで認めることなく、この話は終わっていきます。
それが何を意味するのか? おそらくこれこそが当時のギリシアの政治の状態の表現なのでしょう。この時のギリシアでは何が本質なのかがないがしろにされ言葉巧みに周りを言いくるめられる者こそが力を得ていた――、カルリクレスが最後までソクラテスの言葉に納得しなかったのは、真実を解りつつも利益を得る欲望から逃れられない政治家の愚かさを読者に示すためだったのかと思われます。

 

ソクラテスは何に殺されたのか?

ソクラテスと言えば著者であるプラトンの師匠にあたります。ソクラテスの最後と言えば「若者をかどわかした罪」により死刑に処されています。その事実は当時の政治の有様を示しているとも言え――、プラトンにとっては許せるものではなかったのでしょう。何故、ソクラテスは死ななければならなかったのか? おそらく口先だけで人々を説得していた政治家たちにとって真実を語るソクラテスは疎ましい存在だったのでしょう。今作は色々ある対話編のなかでソクラテスは特に痛烈な批判を行っています。それは弁論術がまがいものであることをはっきりとさせるためなんだと思われます。これを書いているときのプラトンの心情やいかに。師匠の代弁――、ソクラテスに対する思いの強さが、そこにはあるように思えます。

 

ゴルギアス (岩波文庫)

ゴルギアス (岩波文庫)

 

 

オラシオ・カステジャーノス・モヤ「無分別」 翻訳:細野豊

真実という重み……

翻訳者によるあとがきを読むと、この作品の持つ重みが変わってくる。この作品の内容はとある男が千百枚にも及ぶ虐殺の記録原稿を整理編集するというもの。その虐殺というのはグアテマラで36年間という長さに及ぶ内戦の中でマヤ族という民族に行われた虐殺。軍がひとつの民族を根絶やしにしようとした事実。記録によると626の村が破壊され、死者・行方不明者は20万人以上。避難民150万人。国外避難民15万人。総人口の1000万人のうち20%が被害者となった――、という事実を元にした話なんです。終結が1996年だから、ついこの間のこと……、さらに辛い事実として虐殺の実行犯たちは今なお権力の座に居座り裕福な生活を享受しているのだとか……。

 

反転して見えてくるものがある

ちなみに作中にはそれらの描写(事実の詳細の描写)はありません。描かれていたのは千百枚におよぶ虐殺の記録があるということ。主人公がそれを整理編集する役割を担っているということ。大きなところではそれだけだったように思えます。
むしろ著者は悲惨な真実を隠すように描いていたフシがある。何故か? おそらくそれを描くとしたらあまりにもおぞましく陰惨な読み物になってしまうから避けているのだと思われる。違うアプローチでこの事実を伝える方法はないか――、その過程で生まれたのが今作だと思われます。
というのもこの小説の味わいは「滑稽」なんです。虐殺の記録を読む主人公の精神がむしばまれていく姿を描くのですが、話が進むにつれて主人公がありもしない妄想にとらわれていく姿が面白いんです。先日読んだトマス・ピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」と似ていてパラノイア(精神病の一種、偏執的になり妄想にとられていく)をテーマにして描いているのだと――、僕は最後の1ページを読むまでは思っていました。
でも、そうではないんです。主人公の妄想は妄想ではなかった。事実との境目は曖昧なんですが、ただの妄想ではなかったことが明らかになるんです。
「あれ、マジで?」それから僕は少しポカンとした。で、あとがきを読んでさらに驚いた。というもの今度は小説世界を越えた現実での反転が起こっている……、おそらく全てを計算した上でやっているのだと思われる。この作家さん、すごい力量です。
ややこしいのでもう少し説明を。ラスト1ページでの反転は読者の思い込みを反転させるんです。いわゆる驚きですね。「ラスト1ページの衝撃」みたいなあおりがありますが、その手の驚きです。そして次なる反転――、こっちの方はこっそりと潜ませている。事実を知る人が読めばすぐ解るのだろうけど、知らない人はずっと知らないままなんだと思う。ただし知ったならばギョッとする。
こっちの反転は明暗の反転。暗がりにあって見えなかったものが明るみに出てくる。驚きは驚きでもこっちは価値観に訴えてくる。それまではこんなに暗い話をよく滑稽な味わいで書けるものだと関心していたのに、事実を知ると「よくコノ事実を滑稽に書けたものだ!」とビックリしてしまう。小説のもつ意味合いがひっくり返り、そうなった原因(虐殺という事実)に意識が向いてしまう。滑稽であればあるほど陰惨とのコントラストがつくという作りなのだと思う。この振れ幅の大きさこそがこの小説の隠された味わい。窓から眺めていた世界が本当の世界ではなかった、という手の味わい。

 

中南米文学には風土が生む血肉を感じる

世界には凄い作家さんがいっぱいいますね。この作家さんはエルサルバドルで育って、メキシコ、グアテマラでジャーナリストや編集の仕事をしていたらしい。
出自の影響なのか作風はやはり中南米っぽく――、幻想的で詞的。それから向こうの熱い血のようなものや、何故だか解りませんが原色をイメージしてしまいます。ここら辺は風土が違えばこそ生まれる何かで日本人には出せないものだと思われます。中南米文学は毎回だとげんなりしそう(疲れてしまいそう)ですが、時々読む分には刺激的で自分のなかのどこにあるのかも解らないあたりの血がたぎります。生命力でしょうか。それとも文章を介して伝わる肉感や皮膚の色。白人とも黒人とも違う(もちろんアジアでもない)独特の雰囲気。
図書館で装丁に惹かれて手にした一冊でしたが、予想以上に面白かった。返却するときにまた中南米文学の棚に行って他の著作も探してみようかな(いや、もともとガルシア・マルケスコレラの時代の愛」を借りようと思っていたから今度はそっちかな)。

  

無分別 (エクス・リブリス)

無分別 (エクス・リブリス)