本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

ロベルト・ボラーニョ「ムッシュー・パン」 翻訳:松本健二

とある詩人にあてた作品

図書館の新刊本コーナーで見つけた一冊。以前から気になっていたロベルト・ボラーニョが置いてあって……どれどれ、奥付を見てみると……発刊されたばかりではないか! やったー(古典をよく読む僕ですが、実は新しいものが好きなんです)。ということで、かっさらうように借りてきて他の本を押しのけて読んだ一冊。
読後の感想はというと……あまりよく解らなかった。
難しかったという訳ではない。何かを読み逃したという感じでもない。おおよその筋はつかめたような気はしている。でもこのプロットにして、このオチ……解ると言えば解るけど、そこまでの話ではなかったように思える。今作には「コレだ!」という何かを感じられなかった。自分の感性とは合わない作家さんなのか……と疑ったまま「あとがき」をパラパラとめくってみると合点がいった。なるほど、これはこの作家を読むにあたって一冊目に選んではいけない作品だった。
というのも今作はボラーニョが敬愛した、ペルーの詩人セサル・バジェホにあてた作品。著者としては思い入れのある作品のようだが、読み手にすればその詩人であり、ボラーニョ自身についての愛着がなければ、意図をくみ取りきれない作品なのかもしれない。

 

あらすじ

催眠術を会得しているピエール・パン(主人公)がある日に、友人のマダム・レノー夫人(未亡人)からバジェホを診てほしいと頼まれる。バジェホは病院で死の床についているのだが「しゃっくり」だけが止まらない。医師すらも直せない状況のなかで最後の手段――、神秘的な力にすがろうとメスメリスム(動物磁気論)のつかい手であるパンに声がかかったのである。
レノー夫人に好意をよせるパンは依頼を受けて後日バジェホの病院を訪れようとするのだが、謎のスペイン人がパンの行く手に待ったをかける。
「バジェホの治療は行うな!」と言われるパン。金を渡され手を引くことを約束させられ――、背後になにやら怪しげな陰謀があるのではないか? という問いだけが残された。
その後、スペイン人の影になやまされるパン。不気味さだけがいつまでの身の回りを離れない。一方でレノー夫人との約束をも果たさねばならず……、こっそりと病院に忍び込みバジェホの様子を見てみると「この状態は自分には直せる」ことを確信する。なんとしてでも助けなければと思うパンだったが……
その頃、レノー夫人は姿を消し、あいかわらずスペイン人にパンを見張っている。時を同じくしてスペインで勃発した内線、戦争(第二次世界大戦)が忍び寄る。何かがパンの周りでは起こっている。いったい何が? 疑心暗鬼のまま日々を過ごすのだが――、ある日にパンはとある報せを知り、ひとつの結末を向かえたことを知る(結末をネタバレしないよう表現は濁します)。

 

魔術的リアリズムにうってつけの人物

バジェホは実在の詩人だが、実はピエール・パンも実在の人物らしい(とは言え、こちらは有名人ではない)。バジェホ夫人の回想録にはその名前がのっていて、バジェホが腸膜炎を悪化させたときに入院先に「磁気治療師」を呼び寄せたようだが――、それこそがピエール・パンだった。バジェホはパンの治療により調子が良くなったらしく翌日もパンに来てもらうはずだったが、次の日に病院の入口でパンは止められてしまい治療は行えなかったという記載が残っているらしい。そしてバジェホはその一週間後に亡くなったのだとか……
そもそもバジェホという詩人は死後に名前が広まった人物のようで、生前は貧しくて病院でもあまり良い対応を受けていなかったのだとか。おそらくボラーニョは敬愛する詩人を小説のなかでよみがえらせたかったのだと思う。歴史の「if」を選択し直してやりなおさせることが出来るのは作家の専売特許。ある時に少しだけでもバジェホを救った(心地よさを味あわせた)ピエール・パンの実際のエピソードを知ったときに、今作は生まれたのだと思われる。回想録に残っていた不思議な治療をほどこしたパンという人物――、ここ最近の南米文学が得意とするマジックリアリズムを描くとしたら、うってつけの主人公ではないか。これは僕の勝手な想像にすぎませんが、今作はそういった事実(人物たち)に対する敬意によって描かれたのではなかろうか。
あとがきで今作が生まれた経緯を知ると少しだけしみじみ出来ました。振り返るとピエール・パンという人物像には確かなユニークさがあった。レノー婦人に好意をよせるパン。謎のスペイン人におびえるパン。自分の能力をひらめかせるパン。ピエール・パンという人物の描写はほとんどがボラーニョの創作(回想録にはわずかな記載だけ)なのでしょう。どこか愛嬌を感じさせるその人物像は詩人への愛が転じて生まれたもなのでしょう。
本来であれば本文から感動を味わいたかったので、今回はあまりいい読書ではなかったけど、これはこれで今後ボラーニョ作品を読んでいくなかでの物差しにはなるはずです。次は代表作「2666」「通話」など、そっちを挑戦してみようと思います。

 

ムッシュー・パン (ボラーニョ・コレクション)

ムッシュー・パン (ボラーニョ・コレクション)

 

 

J.M.クッツェー「夷荻を待ちながら」 翻訳:土岐恒二

冒頭のあらすじ

舞台は帝国領の辺境にある、とある城壁都市。主人公はその地で長らく民政官を務めていた初老の「私」。郊外には夷狄と呼ばれる土着の民族――、遊牧民、漁を生業にする種族、なにやら不明な蛮族などなどがいる。とにかく帝国の境目である辺境の地とは、中心都市と違って異文化との接触がすぐそばにあるところ。
ある時に中央からひとりの軍人がやってくる。ジョル大佐と言われるその人は「夷狄が帝国に攻め入ろうとしているという情報を得た」という理由から、近辺に出没する夷狄を捕まえはじめる。そして大佐は連行してれきた夷狄に対して取り調べという名のもとの「拷問」をしはじめる。人権などは無視をして、とにかく痛めつけることで夷狄から何かを聞き出そうとこころみる。
これに反発するのが主人公の「私」。それもそのはずで「私」は民政官としてこの地の安定して治めるために、これまでに夷狄との間に良好な関係を築いていた――、年に数回程度だがに互いは交流し、特産品やら鉱物資源やら食料などを交換し持ちつ持たれつの関係を保っていた。そもそも「私」が知っている夷狄には帝国に攻め入ろうとする野心を持つものはいなかった。それどころか日々の暮らしを送るので精一杯……、そんな文化レベルの低い者たちも多かった。
ジョル大佐が連行してきたのはそういう連中である。「私」の目には無害な人々を連れてきて意味もなく痛めつけているだけの、まったく見当違いな愚かな行為にしか思えなかった。だから「私」はジョル大佐に進言する。しかしそれによって「私」は目をつけられることになる。

 

夷荻は来るのか?

地方政治が中央の権威を笠にきた武力(軍)によって侵されていき、次第にジョル大佐やその取り巻きの独壇場になっていく。力によっておさえこまれた都市では「私」の意見など聞き入られるわけはない。夷狄討伐と決まれば、現状がどうこは関係ない――、討伐との命なのだから「討伐」が絶対となる。あるのは命令――、それが軍側の唯一の行動原理。
この話は著者クッツェ―の想像によって生み出された帝国の物語だけど、こんな融通のきかない話はよくある話。着工してしまった事業がいざ始まった途端に間違いが見つかったにも関わらず、それまでに積み重ねられた事実が枷となり止めるに止められなくなったなんてケースは、あることなのだと思われる。ただしこの話により重もみが加わるのは人の命が関わるから――、転がり始めたが最後、それが止まれないまま無益な争いが起こってしまうとしたら、そんなに愚かなことはない。クッツェーがこの話のベースとして意識させるのはそういうことなのだと思われる。
加えてこの物語に面白味が生まれるのは「夷荻」が本当に攻め入ろうとしているのではないか? という不穏な空気が流れること。これは軍が反感を生むきっかけをつくったからというマッチポンプ的な部分もあるのだけれども、それ以前にも「もしかしたら……」という微かな可能性が疑心暗鬼を生むあたりにある。そもそも帝国というのはある時期に生まれた力の集まりに過ぎないのかもしれない。その境目は常に相容れないものと接している。だから何かが起こる危険性は中央よりも多く、いかなる時でも未知なる可能性をはらんでいると言えるのかもしれず、クッツェーはドキドキハラハラ要素としてそこら辺も話に加えていくわけです。タイトル「○○を待ちながら」とすれば、ベケットの「ゴトーを待ちながら」を連想する方も多いと思いますが、まさに「夷荻は来るか? 来ないのか?」 といういつまでも解決しない問いだけがそこには残され――、読み手はわけの解らないまま、その得体の知れないものにヤキモキさせられることになる。

 

正義は正義であるだけで保たれるのか?

構図として今作は「私」「軍」「民衆」「夷荻」に分類される。どれが・どれと・どう関係していくのかは、だいたい想像どおり(だと思われる)なので詳しくは書きません。
ただ、このなかでもっとも異彩を放つのが「私」であることは間違いない。というのも今作における「私」という存在が純粋に「正義」の側にいるわけではないあたりが今作をおかしな方向へと進めていく。
「私」は軍による一連の拷問のあと、その仕打ちによって目が見えなくなった夷荻の娘を自分の屋敷へと連れてくる。何の為か? 最初は憐れみの気持ちや、如何ともしがたい思いが「私」を行動に移させたわけなんだけど……、ただ「私」は次第に娘の魅力の虜になっていく。汚れた娘の体を洗い、動けない娘を介抱するうちに「私」は娘の体をもてあそび始める。そして娘は「私」を受け入れる。しかしそれは愛によるものではなく、娘の置かれた境遇から――、「私」から情をかけられた娘は、その思いに応えるために自らの身をささげていくのです。
当初は軍による横暴に対する正義の訴え――、のはずだったのに、そこに個人のエロスが加わるという面白さ。クッツェーがやろうとしているのは「戦争がどうこう、倫理がどうこう、政治がどうこう」という善悪の価値観を越えてくる。

これはもっと根源的なところに手を突っ込もうという目論見なのだと思われる。誰でも口では「これが正義だ」とは言える。この話を読んだときに「軍側」が酷い――、間違っている! そんなのは絶対にいけないことだ! ということは言えると思う。しかし「民衆」はそう思いながらも行動はしなかった。「軍」の力の前に屈することしか出来なかった――、いや、違うのかな……、夷荻というどこか遠い存在に「民衆」は無関心だったのかもしれません。
「私」は当初は民政官という立場から「正義」を訴えた。内心では事なかれでそれまでどおりに平穏に過ごせればよいと思っていたのである。しかしその「正義」に「私」を縛りつけたのは「肉欲」だった。娘との肉体の繋がりが「私」の精神に変化をもたらしていく。もっと人間的な体の底の方から湧き上がってくるエネルギーが最終的な「私」の行動原理になった。「私」は初老とはいえ肉体は老い活力を失くしていた――、それが娘との繋がりのなかでよみがえってくる。それが精神にもたらしたものは何だったのか? 「正義」を訴えつづけることが出来たのは「私」にとって、それが「生きる意義」と直結したからなのかもしれません。あふれ出る喜び、もう一度と望む「私」の肉欲が「私」を前へと進ませ続けた……
そんなのは正義じゃないと言う人はいるのかもしれない。どうでしょうか? 「正義」とはただ正義であるだけで力を保つことが出来るのでしょうか? もし今作がエロスではなく「愛」を正義の伴走としたならば案外すんなり受け入れられると思う。ただし今作がどうしようもなく面白いのは初老のエロスが正義を伴ったことにある。

 

夷狄を待ちながら (集英社文庫)

夷狄を待ちながら (集英社文庫)

 

 

プラトン「メノン」 翻訳:藤沢令夫

徳とは何か?

プラトン著「メノン」を読みました。メノンとは人の名前――、彼はゴルギアスという弁論術の大家から教えを受けていて、既に色々と知っているつもりになっている若者です。
今作のとっかかりはこう――、メノンがソクラテスに聞くんです。「徳とは人に教えることができるものか? できないならば訓練で身に着けるのか? そうでなければ生まれつきの素質か? それとも他の出どころがあるものか?」と。対してソクラテスは言います。そもそも徳とは何なのか? そして徳についての考察が始まります。
徳とは何でしょう? 僕の場合、道徳的なこと、社会的に善であることと言った何だか漠然としたものを思い浮かべます。ただ今作においての徳は、もう少し意味合いが深いように思われます。人間や国家の根幹となるべき基礎という感じなんだと思います。ソクラテスはこれまでに誰かが徳を正しく表したことは「まだない」と言っています。それだけ概念としては簡単ではないもの「これだ!」と表しきれない何かということなんだと思います。
メノンはゴルギアスという弁論術に長けた人物の教えを受けていて、はじめのうち「徳」について知っているつもりになっています。しかしメノンが語りだすと、さっそくソクラテスに論破されてしまいます。ちなみにメノンが語った徳と言うと、僕が思うような徳……、正義であること、勇気があること、美しいことなどなどでした。
ソクラテスは言います。徳が含むものを示すのではなく、徳そのものは何なのか? 例えば形(四角や球、円錐、円柱)で言えば、立体の形の境界を表すものだ……、というような普遍的なことを言ってくれと。ソクラテスは厳しくメノンに問います。メノンの甘えを一切許す様子はありません。今作、著者はプラトンです。なので、これはもちろんプラトンが書いたソクラテスです。今作でのソクラテスは少しいじわるです。「え!? メノン。君は僕をからかっているのかい?」そう言って混乱しているメノンを追い詰めていきます。遂には徳を知っていたつもりのメノンはわけが解らなくなり再びソクラテスにたずねることになります。

 

学ぶのではなく想起している

メノンは聞きます。「あなたは徳を知らないと言うが、知らないものをどうして探究できるのか?」と。
いいカウンターです。そもそも知らないんだから、そこには問いの提起がない。問いがないというのに何故それについて考えられるのか? 「ソクラテスよ。つべこべ言っているけど、それ自体を知らないというのは屁理屈ではないか?」とメノンは言いたげです。
ここでソクラテスは言います。人間は何かを知るのではなく想起しているのだと。
「想起」――、想い起しているということです。「想起論」これはプラトン哲学の大切な思想のひとつです。新たに知るのではなく既に知っていることを想い出している、という感じです。ソクラテスの考えでは人間の魂は不滅だから過去にはすべてを既に知っていた(プラトンの著書パイドロスでは人間はその昔、神と一緒に高みをめざした――、というシーンがありますので、人間は既に神の世界を見ている)という感じなんだと思います。
ここでソクラテスはひとりの召使いを登場させます。召使いによって想起の例を示そうというもくろみです。そしてソクラテスは召使いに幾何学の問題を順繰りと答えてもらうんです。召使いはこれまでに幾何学を学んだことがありません。それにも関わらず問いが進むにつれてソクラテスの導きによって召使いは自分のなかから答えを見つけ出すんです。召使いは問いを突き詰めていくことで自分の知識のなかから答えを拾い上げる――、想起しているとしか思えない発想を見せるんです。

どうでしょうか? 想起するという考え方。僕は現代に生きているせいか答えは「脳」にあるのではないか? なんて思ってしまいます。脳の90%は使われていないなんて言うじゃないですか。意識に上ってこない部分には我々の想像以上の素質があるのではないか――、想起しているように思えて、そもそもの能力なのでは? なんて思ったりもします。

 

徳は教えられない

また違う登場人物が顔を出します――、通りがかりのアニュトスという知恵者が話に加わるんです。この人の雰囲気は世間に認められた知恵者という感じです。
ソクラテスはアニュトスに「徳が教えられるものだとしたならば、それを教える教師がいるはず――、それは誰ですか?」とたずねます(アニュトスは仕方がない教えてやろうという感じで上から目線です)。
「あいつは違う」「こいつも違う」とやりとりを重ねたうえで、アニュトスは歴史上で徳のあると認められた人だろう結論を出します。
するとソクラテスは「だとしたら歴史上でその教えを受けた者が徳のある人間になっていのは何故か?」と重ねてたずねます。自らの子供にすらもその徳性を教えることが出来ていない――、偉大なる人物の子供が徳性を受け継いで、ひとかどの人物になっている例はないのでは? とさらに問いを重ねるんです。
するとアニュトスは怒ってしまい「ソクラテス!そんなことをしていると恨みをかうぞ!」と言い去っていきます(※プラトン著「ソクラテスの弁明」のなかでソクラテスを訴えるのが、このアニュトスです)。
ただし、ここで見えてきたのは徳は教えられるものではないという結論。それから知恵者と呼ばれている人でも結局は本当の徳を知ってはいないということ……。そのニュアンスにも何やら言いたいことがある雰囲気――、人の道しるべとなる徳、国の根幹をなすような徳のはずなのに世間に認められた政治をつかさどる者、それから知識人には本当の徳を知っている人がいないではないか、知らないのに知っていると思いこんでいる人ばかりではないか、という感じがあるような。これは約2400年前のギリシアの話ですが、今に通じるものがあるように思われます。

 

知識なのか思わくなのか

次の検討に移ります。ソクラテスとメノンは徳には知識が必要だろうと仮定します。ここで「仮定法」という論法が登場します。
そこでは仮定として知識が正しさに導いたケースと、思わくが正しさに導いたケースの比較をするんです。
知識は知っているんだから当然、正しさに導けます。ただしそれは正しく知っている場合に限ります。
一方、思わくはどうなのか? 思わくは結果に依存します。正しさに導けるときもあれば、正しくないときもあるわけです。ここでもう一歩議論は進んで「よい思わく」という言葉が出てきます。
よかれと思うとか、善意から来る――、そんな思わく? と僕は最初に思ったのですが、そうではなく。結果、正しさに導ける思わくが、よい思わくなんです。過程ではなく結果のようで――、徳性を身に着けている人がいるとすれば、それは知性によってではなく神の恵みによって思わくが具わっているということになる。正しい結果を生むときは何に導かれているのか? まさにその意思こそが神ということ――、だから徳は神の世界のものということになる。
正しさに導いかれたときに限っては、「思わく」  「知識」になります。
これでは結果論に思われそうですが……、そうではなく。もし、徳=よい思わく=神の世界のもの、とするならば徳性とは次元が違うんです。これが結論だとすれば、何かはぐらかされているようですが徳の実相(イデア)を求める気持ちがない者には理解されないという意味なのだろうと思われる。僕自身よく解っているわけではありませんが、徳性もまた「無知の知」を自覚しながら追及し続けなければならないということではないかと考えています。

 

メノン (岩波文庫)

メノン (岩波文庫)