本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

J.M.クッツェー「夷荻を待ちながら」 翻訳:土岐恒二

冒頭のあらすじ

舞台は帝国領の辺境にある、とある城壁都市。主人公はその地で長らく民政官を務めていた初老の「私」。郊外には夷狄と呼ばれる土着の民族――、遊牧民、漁を生業にする種族、なにやら不明な蛮族などなどがいる。とにかく帝国の境目である辺境の地とは、中心都市と違って異文化との接触がすぐそばにあるところ。
ある時に中央からひとりの軍人がやってくる。ジョル大佐と言われるその人は「夷狄が帝国に攻め入ろうとしているという情報を得た」という理由から、近辺に出没する夷狄を捕まえはじめる。そして大佐は連行してれきた夷狄に対して取り調べという名のもとの「拷問」をしはじめる。人権などは無視をして、とにかく痛めつけることで夷狄から何かを聞き出そうとこころみる。
これに反発するのが主人公の「私」。それもそのはずで「私」は民政官としてこの地の安定して治めるために、これまでに夷狄との間に良好な関係を築いていた――、年に数回程度だがに互いは交流し、特産品やら鉱物資源やら食料などを交換し持ちつ持たれつの関係を保っていた。そもそも「私」が知っている夷狄には帝国に攻め入ろうとする野心を持つものはいなかった。それどころか日々の暮らしを送るので精一杯……、そんな文化レベルの低い者たちも多かった。
ジョル大佐が連行してきたのはそういう連中である。「私」の目には無害な人々を連れてきて意味もなく痛めつけているだけの、まったく見当違いな愚かな行為にしか思えなかった。だから「私」はジョル大佐に進言する。しかしそれによって「私」は目をつけられることになる。

 

夷荻は来るのか?

地方政治が中央の権威を笠にきた武力(軍)によって侵されていき、次第にジョル大佐やその取り巻きの独壇場になっていく。力によっておさえこまれた都市では「私」の意見など聞き入られるわけはない。夷狄討伐と決まれば、現状がどうこは関係ない――、討伐との命なのだから「討伐」が絶対となる。あるのは命令――、それが軍側の唯一の行動原理。
この話は著者クッツェ―の想像によって生み出された帝国の物語だけど、こんな融通のきかない話はよくある話。着工してしまった事業がいざ始まった途端に間違いが見つかったにも関わらず、それまでに積み重ねられた事実が枷となり止めるに止められなくなったなんてケースは、あることなのだと思われる。ただしこの話により重もみが加わるのは人の命が関わるから――、転がり始めたが最後、それが止まれないまま無益な争いが起こってしまうとしたら、そんなに愚かなことはない。クッツェーがこの話のベースとして意識させるのはそういうことなのだと思われる。
加えてこの物語に面白味が生まれるのは「夷荻」が本当に攻め入ろうとしているのではないか? という不穏な空気が流れること。これは軍が反感を生むきっかけをつくったからというマッチポンプ的な部分もあるのだけれども、それ以前にも「もしかしたら……」という微かな可能性が疑心暗鬼を生むあたりにある。そもそも帝国というのはある時期に生まれた力の集まりに過ぎないのかもしれない。その境目は常に相容れないものと接している。だから何かが起こる危険性は中央よりも多く、いかなる時でも未知なる可能性をはらんでいると言えるのかもしれず、クッツェーはドキドキハラハラ要素としてそこら辺も話に加えていくわけです。タイトル「○○を待ちながら」とすれば、ベケットの「ゴトーを待ちながら」を連想する方も多いと思いますが、まさに「夷荻は来るか? 来ないのか?」 といういつまでも解決しない問いだけがそこには残され――、読み手はわけの解らないまま、その得体の知れないものにヤキモキさせられることになる。

 

正義は正義であるだけで保たれるのか?

構図として今作は「私」「軍」「民衆」「夷荻」に分類される。どれが・どれと・どう関係していくのかは、だいたい想像どおり(だと思われる)なので詳しくは書きません。
ただ、このなかでもっとも異彩を放つのが「私」であることは間違いない。というのも今作における「私」という存在が純粋に「正義」の側にいるわけではないあたりが今作をおかしな方向へと進めていく。
「私」は軍による一連の拷問のあと、その仕打ちによって目が見えなくなった夷荻の娘を自分の屋敷へと連れてくる。何の為か? 最初は憐れみの気持ちや、如何ともしがたい思いが「私」を行動に移させたわけなんだけど……、ただ「私」は次第に娘の魅力の虜になっていく。汚れた娘の体を洗い、動けない娘を介抱するうちに「私」は娘の体をもてあそび始める。そして娘は「私」を受け入れる。しかしそれは愛によるものではなく、娘の置かれた境遇から――、「私」から情をかけられた娘は、その思いに応えるために自らの身をささげていくのです。
当初は軍による横暴に対する正義の訴え――、のはずだったのに、そこに個人のエロスが加わるという面白さ。クッツェーがやろうとしているのは「戦争がどうこう、倫理がどうこう、政治がどうこう」という善悪の価値観を越えてくる。

これはもっと根源的なところに手を突っ込もうという目論見なのだと思われる。誰でも口では「これが正義だ」とは言える。この話を読んだときに「軍側」が酷い――、間違っている! そんなのは絶対にいけないことだ! ということは言えると思う。しかし「民衆」はそう思いながらも行動はしなかった。「軍」の力の前に屈することしか出来なかった――、いや、違うのかな……、夷荻というどこか遠い存在に「民衆」は無関心だったのかもしれません。
「私」は当初は民政官という立場から「正義」を訴えた。内心では事なかれでそれまでどおりに平穏に過ごせればよいと思っていたのである。しかしその「正義」に「私」を縛りつけたのは「肉欲」だった。娘との肉体の繋がりが「私」の精神に変化をもたらしていく。もっと人間的な体の底の方から湧き上がってくるエネルギーが最終的な「私」の行動原理になった。「私」は初老とはいえ肉体は老い活力を失くしていた――、それが娘との繋がりのなかでよみがえってくる。それが精神にもたらしたものは何だったのか? 「正義」を訴えつづけることが出来たのは「私」にとって、それが「生きる意義」と直結したからなのかもしれません。あふれ出る喜び、もう一度と望む「私」の肉欲が「私」を前へと進ませ続けた……
そんなのは正義じゃないと言う人はいるのかもしれない。どうでしょうか? 「正義」とはただ正義であるだけで力を保つことが出来るのでしょうか? もし今作がエロスではなく「愛」を正義の伴走としたならば案外すんなり受け入れられると思う。ただし今作がどうしようもなく面白いのは初老のエロスが正義を伴ったことにある。

 

夷狄を待ちながら (集英社文庫)

夷狄を待ちながら (集英社文庫)

 

 

プラトン「メノン」 翻訳:藤沢令夫

徳とは何か?

プラトン著「メノン」を読みました。メノンとは人の名前――、彼はゴルギアスという弁論術の大家から教えを受けていて、既に色々と知っているつもりになっている若者です。
今作のとっかかりはこう――、メノンがソクラテスに聞くんです。「徳とは人に教えることができるものか? できないならば訓練で身に着けるのか? そうでなければ生まれつきの素質か? それとも他の出どころがあるものか?」と。対してソクラテスは言います。そもそも徳とは何なのか? そして徳についての考察が始まります。
徳とは何でしょう? 僕の場合、道徳的なこと、社会的に善であることと言った何だか漠然としたものを思い浮かべます。ただ今作においての徳は、もう少し意味合いが深いように思われます。人間や国家の根幹となるべき基礎という感じなんだと思います。ソクラテスはこれまでに誰かが徳を正しく表したことは「まだない」と言っています。それだけ概念としては簡単ではないもの「これだ!」と表しきれない何かということなんだと思います。
メノンはゴルギアスという弁論術に長けた人物の教えを受けていて、はじめのうち「徳」について知っているつもりになっています。しかしメノンが語りだすと、さっそくソクラテスに論破されてしまいます。ちなみにメノンが語った徳と言うと、僕が思うような徳……、正義であること、勇気があること、美しいことなどなどでした。
ソクラテスは言います。徳が含むものを示すのではなく、徳そのものは何なのか? 例えば形(四角や球、円錐、円柱)で言えば、立体の形の境界を表すものだ……、というような普遍的なことを言ってくれと。ソクラテスは厳しくメノンに問います。メノンの甘えを一切許す様子はありません。今作、著者はプラトンです。なので、これはもちろんプラトンが書いたソクラテスです。今作でのソクラテスは少しいじわるです。「え!? メノン。君は僕をからかっているのかい?」そう言って混乱しているメノンを追い詰めていきます。遂には徳を知っていたつもりのメノンはわけが解らなくなり再びソクラテスにたずねることになります。

 

学ぶのではなく想起している

メノンは聞きます。「あなたは徳を知らないと言うが、知らないものをどうして探究できるのか?」と。
いいカウンターです。そもそも知らないんだから、そこには問いの提起がない。問いがないというのに何故それについて考えられるのか? 「ソクラテスよ。つべこべ言っているけど、それ自体を知らないというのは屁理屈ではないか?」とメノンは言いたげです。
ここでソクラテスは言います。人間は何かを知るのではなく想起しているのだと。
「想起」――、想い起しているということです。「想起論」これはプラトン哲学の大切な思想のひとつです。新たに知るのではなく既に知っていることを想い出している、という感じです。ソクラテスの考えでは人間の魂は不滅だから過去にはすべてを既に知っていた(プラトンの著書パイドロスでは人間はその昔、神と一緒に高みをめざした――、というシーンがありますので、人間は既に神の世界を見ている)という感じなんだと思います。
ここでソクラテスはひとりの召使いを登場させます。召使いによって想起の例を示そうというもくろみです。そしてソクラテスは召使いに幾何学の問題を順繰りと答えてもらうんです。召使いはこれまでに幾何学を学んだことがありません。それにも関わらず問いが進むにつれてソクラテスの導きによって召使いは自分のなかから答えを見つけ出すんです。召使いは問いを突き詰めていくことで自分の知識のなかから答えを拾い上げる――、想起しているとしか思えない発想を見せるんです。

どうでしょうか? 想起するという考え方。僕は現代に生きているせいか答えは「脳」にあるのではないか? なんて思ってしまいます。脳の90%は使われていないなんて言うじゃないですか。意識に上ってこない部分には我々の想像以上の素質があるのではないか――、想起しているように思えて、そもそもの能力なのでは? なんて思ったりもします。

 

徳は教えられない

また違う登場人物が顔を出します――、通りがかりのアニュトスという知恵者が話に加わるんです。この人の雰囲気は世間に認められた知恵者という感じです。
ソクラテスはアニュトスに「徳が教えられるものだとしたならば、それを教える教師がいるはず――、それは誰ですか?」とたずねます(アニュトスは仕方がない教えてやろうという感じで上から目線です)。
「あいつは違う」「こいつも違う」とやりとりを重ねたうえで、アニュトスは歴史上で徳のあると認められた人だろう結論を出します。
するとソクラテスは「だとしたら歴史上でその教えを受けた者が徳のある人間になっていのは何故か?」と重ねてたずねます。自らの子供にすらもその徳性を教えることが出来ていない――、偉大なる人物の子供が徳性を受け継いで、ひとかどの人物になっている例はないのでは? とさらに問いを重ねるんです。
するとアニュトスは怒ってしまい「ソクラテス!そんなことをしていると恨みをかうぞ!」と言い去っていきます(※プラトン著「ソクラテスの弁明」のなかでソクラテスを訴えるのが、このアニュトスです)。
ただし、ここで見えてきたのは徳は教えられるものではないという結論。それから知恵者と呼ばれている人でも結局は本当の徳を知ってはいないということ……。そのニュアンスにも何やら言いたいことがある雰囲気――、人の道しるべとなる徳、国の根幹をなすような徳のはずなのに世間に認められた政治をつかさどる者、それから知識人には本当の徳を知っている人がいないではないか、知らないのに知っていると思いこんでいる人ばかりではないか、という感じがあるような。これは約2400年前のギリシアの話ですが、今に通じるものがあるように思われます。

 

知識なのか思わくなのか

次の検討に移ります。ソクラテスとメノンは徳には知識が必要だろうと仮定します。ここで「仮定法」という論法が登場します。
そこでは仮定として知識が正しさに導いたケースと、思わくが正しさに導いたケースの比較をするんです。
知識は知っているんだから当然、正しさに導けます。ただしそれは正しく知っている場合に限ります。
一方、思わくはどうなのか? 思わくは結果に依存します。正しさに導けるときもあれば、正しくないときもあるわけです。ここでもう一歩議論は進んで「よい思わく」という言葉が出てきます。
よかれと思うとか、善意から来る――、そんな思わく? と僕は最初に思ったのですが、そうではなく。結果、正しさに導ける思わくが、よい思わくなんです。過程ではなく結果のようで――、徳性を身に着けている人がいるとすれば、それは知性によってではなく神の恵みによって思わくが具わっているということになる。正しい結果を生むときは何に導かれているのか? まさにその意思こそが神ということ――、だから徳は神の世界のものということになる。
正しさに導いかれたときに限っては、「思わく」  「知識」になります。
これでは結果論に思われそうですが……、そうではなく。もし、徳=よい思わく=神の世界のもの、とするならば徳性とは次元が違うんです。これが結論だとすれば、何かはぐらかされているようですが徳の実相(イデア)を求める気持ちがない者には理解されないという意味なのだろうと思われる。僕自身よく解っているわけではありませんが、徳性もまた「無知の知」を自覚しながら追及し続けなければならないということではないかと考えています。

 

メノン (岩波文庫)

メノン (岩波文庫)

 

 

チャールズ・ブコウスキー「パルプ」 翻訳:柴田元幸

男は「最高!」と言い、女は「最低!」と言う

コレクションとして本棚に並べるために買った1冊。以前に図書館で借りて読んだことがあったので、この本は棚へと直行するはずだったのに……、つい1ページ目をパラっと開いたが最後、止まらなくなりました。ということで再読しました。この小説は面白い。というか面白過ぎる。あとがきで「チャールズ・ブコウスキーの遺作にして最高傑作」と書いていたけれども最高かどうかば別として傑作だと思います。

ブコウスキーは50歳から作家業に専念して50作に及ぶ著作を発表しています。短編が味わい深いのでまだブコウスキーを読まれていない方はまず「町でいちばんの美女」(短編集)あたりから入って、次に今作(長編)をおすすめします。というのもブコウスキーの小説は型破りなところがあって普通の小説だと思って手を出すと面食らってしまうところがあると思われる。

何が? というと「ろくでもなさ」「どうしようもなさ」「愚かさ」などなど。主人公はオッサン――、ブコウスキーの小説にはヘンリー・チナスキーという著者の分身的存在が出てくることが多いが、今作はニック・ビーレンというオッサン。どちらにしてもろくでもないことには変わりがない。面食らう要素としては「露骨」であること「人としての底辺の感じが半端ない」こと「欲望に忠実がゆえに身を崩している感じが、これまた半端ない」ことなどが上げられる。イメージとしてはダラシナイ格好(黄色い歯、もしくは歯抜け ←あくまでもイメージとして)。日中から酒をあおっている、賭けごとが好き、女好き(←ここら辺はあてはまる)。競馬場に入り浸って新聞片手にレースにくぎづけになって一喜一憂している感じ(←これは半分あてはまる)。ブコウスキーの小説はそんなオッサンが主人公という少し変わった特色があるんです。なので男性(特に中年男性)は「最高!」と言い、女性は「最低!」と言うタイプの小説かもかもしれません。

 

これはどんな話か?

主人公ニック・ビーレンは探偵をやっている。自称「名探偵」。時間あたりの料金は6ドルと破格。ただし成功しているようには見受けられない――、むしろ探偵業は閑古鳥が鳴いている状態。日銭を稼ぐのに必死という状態。事実、大家からは滞納分の事務所の家賃をさっさと払え――、でなければとっとと出ていけと言われている状態。
ある日にとびきりの美女があらわれる。彼女は自分のことを「死の貴婦人」と言い「セリーヌを捕まえてほしい」とビーレンに依頼をしてくる。セリーヌとはルイ=フェルディナン・セリーヌ――、実在したフランスの作家(厭世的な作家)であり、とっくの間に亡くなっているはずの人物なんです。「セリーヌは死にましたよ」と言うビーレンに対して貴婦人はしつこく引き下がろうとはしない。ビーレンはしかたなく依頼を受け、疑いながら貴婦人に言われた古本屋に立ち寄ってみると本当にそこにはセリーヌがいる。棚の前でセリーヌトーマス・マンの「魔の山」を立ち読みしていて「こいつは退屈をゲイジュツだと勘違いしている」なんてマンを揶揄している。過去の偉人が同じ時代に生きた偉人を酷評しているという痛烈な描写のはずなのに、古本屋の店主は「そこのおまえ、買うつもりがないなら出ていけ!」と怒鳴ったりする――、名誉も名声も庶民にとっては関係ないと言わんばかりの滑稽さ……
登場人物はそれだけではない。赤い雀を見つけてくれという依頼者が現れたり、妻の浮気を調査してくれという依頼人が現れたり、宇宙人につきまとわれている(その後で実際に宇宙人は出てくる)から助けて欲しいという依頼者が現れたりする。つまりこれは何でもありの小説。そんな話が面白いのか? と言われそうですが、これが面白いんです。そもそものコンセプトからしてガチャガチャしたものをブコウスキーは書こうとしている。あとがきで翻訳者の柴田元幸さんが解説してくれていますが――、以下引用。

表第の『パルプ』とは、かつてアメリカで太陽に出版され大量に消費された三文雑誌のことをさす。製紙原料に安価な木材パルプをもっぱら使用したことからこの名がある。高級な光沢紙を用いた「スリック・マガジン」に対し、粗悪なザラ紙を使ったこれら「パルプ・マガジン」(あるいは単に「パルプス」)は、その内容も。お粗末な探偵・冒険・SF・エロ小説などが中心であった。入れ物も中身も、どこまでも安っぽかったわけである。

 (翻訳者:柴田元幸氏 あとがきより)

というあたりを意識して描かれている。じゃあやっぱりくだらないのだろうと思われるかもしれませんが、確かにくだらないんです。でも、くだらなさが面白い………… うーん(苦)、ブコウスキーの魅力を伝えるのは難しい。

 

ブコウスキーが何を語るのか?

――例えば、面と向かってどうしようもないオッサンの話を聞くのはつらいと思うけど、テレビを通してだと見れたりする。いや、結構おもしろがって何を言うのかに興味をもったりする。その瞬間は他人事のつもりでニヤニヤしながら心のなかでは「やれやれ」なんて思っていたりするのだけれども……

とは言えその時の気持ちをよくよく考えてみると――、自分と違う人種だと思っているのではなく、自分のなかのどこかにも同じ気持ちがあることに気が付いているから皮肉を感じて面白ろがっているのだと僕は分析する(自分と共通するものがなければ関心はもてないし、きっと皮肉な思いも生まれないはずだから)。自分では口には出さないことをオッサンが露骨に言っているのが面白い――、今作の魅力はそんなむき出しの感じなのだと思う。身も蓋もないことを平気で言ったりやったりしてる、あるがままの感じがウケるのだと思われる。

そもそもブコウスキーの小説を読むときにはプロットなんて気にしていないのかもしれない。オッサンが言うこと=ブコウスキーの代弁であるから、ブコウスキーという不良老人が主人公に何を語らせるのかを読みたいのだと思う。楽観的悲観主義――、ブコウスキーの描く文章には達観に似た何かがあって、最後には死が待っていることを解っていながら退屈でドン詰まりの日常を描いている感じがある。一日一日と死に向かって過ごしていること読者に気付かせながらも、その事実を可笑しみを込めて描くから文章にどことなく哀愁が漂っている。書いていることがバカバカしいほどに裏に潜ませている覚悟のような凄みを感じる。愚かな話なのに何故だか時々グッとくる。ブコウスキーの魅力はそういうところなのだと思う。こればかりは読んでもらわないと伝わらない。ハマる人はとにかくハマる。ブコウスキーの作品には愚かな人間たちを虜にする何かがある。

 

パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)