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本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

チェーホフ「ワーニャ伯父さん」 翻訳:小野理子

今作「ワーニャ叔父さん」はチェーホフの作品のなかで四大戯曲と呼ばれるもののうちのひとつです。人間の誰しもが感じるであろういかんともしがたい思いを表現した作品。言葉にし難い感情が登場人物たちの心の微妙な動きによって読者に再認識されるというもの。この作品が支持されているということは、みんながそう思っているということだから、このテーマは自分だけの悩みではないことを知ることが出来たというのもひとつの収穫。そして人間とは何故こうも面倒くさいのかに気がつかされる作品。

 

ワーニャ叔父さんとは40代半ばの中年男性。独身で妻も子もなく田舎の屋敷を守るために働き続けてきた、どちらかというと報われない男です。その屋敷には現在、ワーニャの妹(今は亡くなっている)の旦那であるセレブリャーコフという――、大学教授を引退した男がやってきている。ワーニャは若かりし頃、このセレブリャーコフという男に憧れていた。偉大な人物として敬意を払い彼のために多くの労力を費やした。ワーニャはセレブリャーコフについていけば自身の人生を豊かにするための何かが得られると信じて疑わなかったのである。しかし実際のところはどうか――、確かに大学教授として一定の地位を築いた人物である。ただ思うほどではなかった……、ワーニャの思うところでは彼の本は世間では計り知れない価値があるものになるはずだった。ただし結果としては月並みな評価しか得られなかった。ワーニャは40代半ばになってようやく知ることが出来た――、セレブリャーコフとはさほどの人物ではないということに。取り返しのつかない思い……、今さらながらに人生のいちばん輝かしい時を無駄に使ってしまったことを知ったのである。絶望――、もはややり直すことが出来ない人生。中年となった今、この先何が出来るというのか(この頃のロシアの平均寿命は60歳代か)。
加えて腹立たしいのはセレブリャーコフにはエレーナという後妻がいるということだった。エレーナは若くそして美しかった。ワーニャはエレーナに心を奪われた。しかし叶わぬ恋心。ワーニャの身もだえする思いは形を変え、セレブリャーコフへの憎しみへとなっていく。

 

これは中年となり人生を振り返った時に感じる「こんなはずではなかった」思いを書き表したもの。思い描いた通りの人生を歩んでいる人はいるとは思う。でもそうではない人のほうが多いのではないだろうか。ワーニャは女々しい男である。読んでいる最中はグチグチ言っているばかりのどうしようもない男のようにも思えたけれども、ラスト付近の「人生とはそういうものだ」という諦めにも似た捉えかたには共感するものがあった。
人間は結果となり振り返ったときにしか評価は下せないのかもしれない。ワーニャは若い頃には「生きがい」としてセレブリャーコフに奉仕したはずである。その瞬間には確かな手ごたえを感じていたのではないだろうか。若い頃というのは失敗が許される――、それは取り返しがつくという意味の裏返しである。一方、中年となってからの失敗(結果)には手遅れ感がともなってしまう。誰もが人生を良いものにしようとやってきたはずである。その為に時に身を粉にして頑張ったのではなかったか? その結果が報われないとしたならば、人生に絶望してしまうというのは解らなくはないでしょう。
チェーホフの巧さは憎しみの対象であるセレブリャーコフにエレーナという美女を与えたことにもある。セレブリャーコフが幸せそうに見えるほどにワーニャの歯ぎしりは大きくなる。ルサンチマンの思いが強くなり二人の間のコントラストが際立ってくる。
しかし当のセレブリャーコフは本当に幸せだったのか……、戯曲の舞台が切り替わりセレブリャーコフとエレーナの会話を覗いてみると、案外そうではないことが解ってくる。セレブリャーコフにはセレブリャーコフの悩みがある。
心の苦しみは誰にでもある。それは見た目では解らない。人間は相対的にしか自分の立ち位置を判断できないのかもしれない。悩みながら時に人を羨み、時に優越感に浸る――、そうやって喜怒哀楽に揺れながら自分の人生に折り合いをつけていくしかないのかもしれません。

 

ワーニャおじさん (岩波文庫)

ワーニャおじさん (岩波文庫)

 

 

サミュエル・ベケット「ゴトーを待ちながら」 翻訳:安堂信也・高橋康也

これはウラジミールとエストラゴンの二人が、ゴドーという人物が来るのを待つ話。二人はゴトーを待ちながらたわいのない話を繰り返している。舞台は木が一本だけ立っている田舎道。いつまで経ってもゴトーはやって来る様子はない。「立ち去ろうか」「いやゴトーを待たなければ」というやりとりを繰り返し、例えばいざ立ち去ろうと決めたとしても、二人はその場から動かない。
これはすべてに何かの寓意が含まれているように思われる話です。けれども一向にそれが何なのかは解らない。
とにかく不思議な作品。難しいことは書いていない。読んだ通りに頭のなかで想像が出来るし、そこではちゃんと一本のストーリーを作りあげることが出来る。でも振り返って考えてみても、それが何だったのかが解らない。しっかりと読んだのに、把握も出来たのに、全体像が解らない。それどころかそれぞれのモチーフも何だったのかすら解らない。まったくのお手上げ状態――、でも面白いものを読んだという気持ちになるのが不思議なところ。

まず気持ち悪いのがこの二人が誰なのかが解らないということ。何を目的としているのか、何故ゴトーを待っているのかが解らない。二人の関係性も解らなければ、どのような人物なのかも解らない(wikiには二人は浮浪者と書かれていたけれども、作中にはそれを示す明確な記述はない)。
解るのはひとりは足が臭くて、ひとりは口が臭いこと。やりとりのなかで「自殺をしてみようか」というくだりがあるから、二人は死を恐れている様子がない。「あれはゴトーか?」というやりとりから二人はそもそもゴトーなる人物には合ったことがないようだ。
あっけらかんとした二人のやり取りからは生々しさは感じられない。もちろん感情はある。喜怒哀楽もある。ただ我々がもつ一般的な感覚とはズレているように思われる。何かを達観しているようだけど、それでいて俗っぽいことをさらりと言ったりする。悲壮感はない。楽しげでもない。どちらかというとあやつり人形や機械仕掛けの人形の話でも聞いているような感じ。時々、二人は存在していないのでは? とも思えるし、あるいはこれは一人の人間の心のなかでのかけ合いのようにも思えたりする。
これでは何も言っていないに等しいのだけれども、ただ――、「何も言っていない」というのも、またひとつの正解のようにも思われる。とまあ、答えのないところでグルグルグルグル思考はめぐり、いつまで経ってもどこにもたどり着かない……
話のなかで動きが生まれるのは途中、ポッツィとラッキィという奇妙な人物が登場すること。何かが動き出す予感――、しかしそれでも動かない。ただただ奇妙な二人が現れる。
ポッツィはラッキーの首にロープをくくりつけている。ポッツィはこれから「ラッキーを市場に売り飛ばしに行く」と言う。ラッキーは嫌がる様子は見せない。ただ、ポッツィの言うことは何でも聞く。踊れと言われれば踊る。考えろと言われれば考える。ポッツィはラッキィの行動は自分に気に入られたいがためにやっていると言う。ポッツィはラッキィと自分の立場について、互いは「そう生まれついたのだ」という哲学を披露する。それがこの世界を表す言葉かと言われれば、そうとも思えるし、空疎なたわごとにも思える。
他にも四人が集まるこのシーンでのやりとりは色々とある。ポッツィが食べ終えた骨付きの肉をエストラゴンが拾い上げて、しゃぶりつくという面白い場面が描かれたりする。ただ基本的には何も起きない。やがてポッツィとラッキィは去っていく。
そして日が暮れかけるころになり、一人の少年がゴトーの伝言を告げにやってくる。「ゴトーは今日は来れないが、明日は来ると言っている」と二人は少年に言われて、第一幕が閉じていく。

第二幕もほとんど構図は同じです。あいかわらずゴトーはやってくる様子はありません。途中でポッツィとラッキィは再び現れます。その時、何故だかポッツィは盲になっている。ポッツィは転んで立ち上がることが出来ずにウラジミールとエストラゴンの二人に助けを求めたりする。ここでは第一幕では偉そうにしていたポッツィの落ちぶれた様子が描かれる。その他、変わった点としてポッツィは二人のことを覚えていない。二人はポッツィのことをはっきりと覚えている。
第二幕がはじまった時には、第一幕の翌日だとばかり思っていたのに(疑うこともなかったのに)ポッツィが現れると急にそれが疑わしくなっていく。一幕と二幕との間にはずいぶんと隔たりがあるのか、それでもやはり翌日なのか……。二幕ではそれだけではなく今が夕方なのか朝なのかすらも解らなくなっている。混沌とした様子は一幕よりもさらに色濃くなっている。流れは第一幕同様にポッツィとラッキィは去っていき、その後で少年がやってきてゴトーの伝言を告げていく。
つまりは多少の変化はあるもののゴトーを待つという目的は達成することが出来ずに終わっていく。あるいは繰り返しを予感させる。永遠にウラジミールとエストラゴンの二人はゴトーを待ち続けるのではないか?と想像してしまう。とまあ終わりと始まりとでは、ほとんど何も変わらないままこの話は終わっていく。

本を置いて色々と考えてみたけれども、一向に何も解らない。ゴトーが「ゴッド」に似ているだとか、ゴトーは死を表現しているだとか、ネットを覗けば色々な解釈が成されているようです。そう言われるとそんな風に思えるし、そうかなーと疑いたくもなる。時々、突拍子もない解釈があって面白いなーと関心してしまうこともあった。自分を含めて誰もが答えを見つけたがっている。それぞれのなかで何かの解釈が生まれて消えていく。人は自分が見たように見る。だから僕も僕なりにいろいろと解釈しながら読んでいたように思う。あらためて考えたところで何かが生まれるとも思えない。ただページをめくっていた瞬間瞬間に生まれていたものこそが、この本から得た大切な手触りだったようにも思える。とまあ何を書いても残念ながら曖昧なことしか言えないような…… でも今作はそれで言いように思える。いつかまた再読したときには、その時の解釈があるのだと思う。

 

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

 

 

アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言 溶ける魚」 翻訳:巖谷國士

シュルレアリスムの生みの親であるアンドレ・ブルトン(1896-1966)が1924年に起草した今作「シュルレアリスム宣言」。これは新たな芸術、縛りつけられた魂の解放、既存の価値観からの脱却などを求めた宣言だが、この内容は当時の人たちには衝撃をもって受け止められ、議論が生まれ混乱を呼び起こしたようです。
今現在を生きる我々にとっては前衛的な作品や魔術的な作品、幻想文学などなど、変革の先に生まれたものがひとつのジャンルとして確立しているのを知っているから、あまり不思議に思わないかもしれないが――、これを読めば間違いなくここら辺(今作辺り)にそれらの源流があることが解る。ブルトンがその後の文学にどのくらいの影響を与えたかは計り知れない。読んで驚いてしまうのだけれども、あまりにもこの宣言の内容は洗練されている。ひたすらに芸術に対しての真摯な姿勢をつらぬくブルトンの様子に感動してしまう。
少し前に読んだ「ナジャ」が面白かったから、どんなものか……、と少し懐疑的な思いを抱きながら(だって、〇〇宣言なんて自分で言うのはどこか滑稽じゃないですか……)読み始めた今作だったけれども、いざページをめくってみれば全てが想像以上でうれしい誤算。なるほど2作品を読んでアンドレ・ブルトンという人物がシュルレアリスムを生み出したのは必然であることが理解できた。この人物のもつ想いの熱量が新しい扉を開いたことが理解できた。

ブルトンはまずきっぱりとシュルレアリスムとは何かを定義する。以下引用。

男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。

最近ではシュルレアリスムは「シュール」という使われ方がされ、不思議な現実とか、奇抜ながらも現実感があるものとか、非現実と現実とが絶妙なバランスを保つものなどに対して、その言葉が使われている。元々シュルレアリスムとは日本語にすると「超現実主義」と訳され、言語化される以前の思考にひとりでに浮かび上がってくるイメージをそのまま表現することに対して使われる言葉である。もっと直観的で瞬発力のある、人間の思考の広がりであり、わけの解らなさを拾い上げるものなのだと思う。ブルトンフロイトが夢による精神分析にとても興味を持っていたようで、今作でも夢を見ている時の自分ではコントロール出来ない状態の中で生み出されるものに芸術の可能性を求めている。つまりは言語化され誰からもひとつの形として固定されてしてしまうイメージを嫌っている。人間の思考は本来はもっと掴みどころのないものであり、そこにこそ面白味があり可能性があるということを強く主張しているのだと思われる。

今作には「シュルレアリスム宣言」の他にもう一遍「溶ける魚」という中編小説が入っていて、この「溶ける魚」にこそブルトンの自由な連想が表現されている。この小説には自動記述という企みがあって――、意識や技術の支配を受けることなく、とにかく思い浮かぶまま、束縛されない本性にしたがって、ひとつの小説を描こうとしている。
で、読んでみるとこれが解らない。常識では考えられない描写が続いていく。意味をとらえようとするほどに混乱する。とにかくイメージが爆発した自由な発想が生み出した――なんじゃこりゃ!な作品になっている。
でもこれが不思議なことに……、突拍子がないほどに、逆説的に、普通というものが浮かび上がる装置になっているから面白い。何がおかしいのかを探すということは、反対にある普通を見つけることになる。矛盾する部分が頭の中で反転しようとする。
まあ、だからと言ってトータル(全体として)で何か大きなものが浮かび上がるわけではないんだけど(僕の場合は……)、それでもこれは得も言えない感覚にさせられる芸術を見ている時の感じと近いと思わされた。
ただ「溶ける魚」に関してはこの後再読することはおそらくない。正直読んでいて結構疲れた。まあこの読書体験はブルトンが求めたものの一端を知るという意味では理解が進むものだと思う。だから読めて良かった。ブルトンがやりたいことを垣間見れたように思えた。
望もうと望むまいと、人間の頭のなかには膨大なイメージの世界が広がっている。それは当然、言語という形に置き換えられるものばかりではない。むしろ置き換えられないものばかりなのだと思う。自分が正しいとするものは何なのか? それは己の精神が混沌のなかから現実にピントを合わせること。言語によってくっきりとした輪郭が与えられることによって発想を捉えることが出来る。しかし多くのものがそこではこぼれ落ちている。だからこぼれ落ちたものを再び拾い上げる――、それこそが我々が現実と思っている以前の「超現実」。ブルトンが求めたものは、人間がつくり上げた世界では形になれないものばかり。しかしそこにこそ人間が本来持っている可能性がある。ブルトンのいう「シュルレアリスム」とは言語以前であり、ひるがえって得られる現実を超越した何か(もはや言葉には出来ない)ということなのだと思う。

 

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)