本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

プラトン「ラケス」 翻訳:三島輝夫

プラトン著「ラケス」を読みました。ラケスとはアテナイギリシアの都市)の将軍です。ある時にリュシコマスという人物が息子の教育方針についてラケスとニキアスという二人の将軍に問うんです。
「どのように教育を行えば最もすぐれた人物になれるのか?」と。
何故そんなことを戦いを専門とする将軍に聞くかと言うと――、リュシコマスは息子に重装武闘術を学ばせようと考えていて、それが有益がどうかを聞きたかったわけなんです。
二人の意見は対立し――、ラケスは「そんなものは価値はない!」と言い、臆病者が学んだならば無謀になるだけと説きます。対してニキアスは戦いの際に有利になるし、それを取っ掛かりにして陣形・統帥など他のことをも学びたくなり以前よりも大胆かつ勇敢になれると説くんです。どちらが良いとも決められぬまま今度はソクラテスに順番が回ってきます。ソクラテスはこの頃、ラケスと共にデリオンでの戦争に従軍していて勇敢だと評価され、立派な人物だと目されるようになっていたんです(ソクラテスと戦争とのイメージが結びつかない。ちょっと意外です……)。
ソクラテスはまず、こういうことは多数決で決めるべきではない――、正しい知識によって結論を出さなければならないことを前提にします。そして重装武闘術の良し悪しを問題にしているけれども、突き詰めるとそれは何についての問いなのかを明らかにしようとします。重装武闘術とは手段に過ぎず、目的とするものは何なのかをハッキリとさせようとするんです。ソクラテスは「教育の過程で徳が子供達のなかに生まれて、魂を善いものにすることが目的」ですよね?と問い、二人の将軍の同意を得ます。

だから、まずは「徳」とは何かを知らなければ始まらないという結論に至ります。とは言え、それをやるのは大変だから今回は「徳」のなかの一部である「勇気」について考えてみませんか?という提案をして、ようやく議論のテーマが決まるわけです。
とてもまどろっこしいです。とは言えプラトンの対話編はこのように手順をきっちり踏むことを大切にします。知っているつもりになって本質を見誤ることを避けるために、ひとつひとつ検討を重ねることにより何が問われているのかを明確にするわけです。
冒頭、ラケスとニキアスが意見を対立させたけれども、それらは本質を置き去りにしたままの愚かなやりとりであったことを暗黙裡に読者に伝えるつくりになっているんです。
ということで今作の哲学テーマは「勇気について」。
勇気とは何でしょうか? 
web辞典を見てみると「恐怖に屈することなく向かっていく心意気。強気にして積極的な心境を指す言葉。大まかには、不安や恐怖、恥を恐れる事無く何かへ立ち向かうこと。或いは、そういった気力」というようなことが書かれています。定義するとなると確かにそんな感じが「勇気」ということになるのでしょう。
さて今作に戻ります。まずラケスが「逃げることなく戦場に踏みとどまって敵を防ぐもの」こそ勇気がある者だと説きます。ラケスが言うのはステレオタイプの勇気――、不利な状況でも逃げ出さない心意気。忍耐強さのなかでも臆病風に吹かれない者こそが勇気だと主張します。
しかしソクラテスは不利な状況で逃げ出さないことは無思慮ではないか?と指摘してラケスに理論の間違いを認めさせます。
どうでしょうか? これでは辞典で定義される勇気もまた時と場合によれば無思慮となる可能性があるような……、ソクラテスの指摘を認めるならば本当の意味での勇気を言い表しているとは言えなくなる。
次にバトンタッチでニキアスが語ります。ニキアスは「恐ろしいものとそうではないものを見分ける知識こそが勇気である」と定義する。ニキアスは恐れを知らない者――、言わば無知ゆえに逃げ出さない血気はやるだけの勇気を排除して、知識によって裏打ちされたものが勇気であると説くわけです。ラケスの語った勇気に新しい条件を付け加えたハイブリッドな理論を展開するわけです。
しかしここで思わぬ伏兵が反論する。先ほどソクラテスに論破されてしまったラケスが「それでは知識のある医者や農夫も勇気がある者と言えるのか?」と言い返すのです。対してニキアスは勇気を持つものはごく一部に限られるとして、思慮あるものがその対象だと言うわけです。
見識があり、さらに知識によって裏打をし、それを思慮をもってして行動できる者こそが「勇気」あるもの――、という感じなんだと思われます。
ここでソクラテスはそれは未来についてしか対象にしていないのでは? と問いを挟みます。つまりはニキアスが言ったことは将来起こり得ることに対しての心構えとしての勇気――、もし勇気なるものが経験や認識に先立つ、もっと先天的で自明的な認識や概念だとしたならば、未来だけを対象にしているのは明らかに狭すぎるのではないか? と問うわけです。
過去、現在、未来、全てを網羅していなければ勇気を定義したことにはならない。勇気が魂を良いものにするとしたならば勇気とは徳そのものなのかもしれない――、そもそも勇気を徳の一部として検討し始めた前程にも矛盾があったのかもしれないと一同は理解して、今作の話は締めくくられるわけです。

結局、今作では勇気が何かは解らないんです……。じゃあこの話は何なんだ!と言いたくなりますが、そうではなく、今作は三人のやり取りを通して哲学する姿勢を改めて我々に知らしめてくれるものなのだと思います。今作ははじめの方で事前に「徳のなかの一部である勇気について検討しよう」という前程をしっかりと打ちたてたはずなんです。にも関わらず、そこにも間違いがあったことが最後に解る。つまりこれはそれほどまでに先天的にある概念を人が言い表すのは難しいことだと示しているのだと思う。
それなのに深く検討する事もなく、さも知ったように語る人がいかに多くいることか――、三人が十分に長い議論を重ねて出した結論が「間違い」だった。このことの意味は、ひとつの真理を探ろうとするならば並大抵ではない真摯さが必要であることの裏返しなのだと思う。

 

ラケス (講談社学術文庫)

ラケス (講談社学術文庫)