本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

プラトン「メノン」 翻訳:藤沢令夫

徳とは何か?

プラトン著「メノン」を読みました。メノンとは人の名前――、彼はゴルギアスという弁論術の大家から教えを受けていて、既に色々と知っているつもりになっている若者です。
今作のとっかかりはこう――、メノンがソクラテスに聞くんです。「徳とは人に教えることができるものか? できないならば訓練で身に着けるのか? そうでなければ生まれつきの素質か? それとも他の出どころがあるものか?」と。対してソクラテスは言います。そもそも徳とは何なのか? そして徳についての考察が始まります。
徳とは何でしょう? 僕の場合、道徳的なこと、社会的に善であることと言った何だか漠然としたものを思い浮かべます。ただ今作においての徳は、もう少し意味合いが深いように思われます。人間や国家の根幹となるべき基礎という感じなんだと思います。ソクラテスはこれまでに誰かが徳を正しく表したことは「まだない」と言っています。それだけ概念としては簡単ではないもの「これだ!」と表しきれない何かということなんだと思います。
メノンはゴルギアスという弁論術に長けた人物の教えを受けていて、はじめのうち「徳」について知っているつもりになっています。しかしメノンが語りだすと、さっそくソクラテスに論破されてしまいます。ちなみにメノンが語った徳と言うと、僕が思うような徳……、正義であること、勇気があること、美しいことなどなどでした。
ソクラテスは言います。徳が含むものを示すのではなく、徳そのものは何なのか? 例えば形(四角や球、円錐、円柱)で言えば、立体の形の境界を表すものだ……、というような普遍的なことを言ってくれと。ソクラテスは厳しくメノンに問います。メノンの甘えを一切許す様子はありません。今作、著者はプラトンです。なので、これはもちろんプラトンが書いたソクラテスです。今作でのソクラテスは少しいじわるです。「え!? メノン。君は僕をからかっているのかい?」そう言って混乱しているメノンを追い詰めていきます。遂には徳を知っていたつもりのメノンはわけが解らなくなり再びソクラテスにたずねることになります。

 

学ぶのではなく想起している

メノンは聞きます。「あなたは徳を知らないと言うが、知らないものをどうして探究できるのか?」と。
いいカウンターです。そもそも知らないんだから、そこには問いの提起がない。問いがないというのに何故それについて考えられるのか? 「ソクラテスよ。つべこべ言っているけど、それ自体を知らないというのは屁理屈ではないか?」とメノンは言いたげです。
ここでソクラテスは言います。人間は何かを知るのではなく想起しているのだと。
「想起」――、想い起しているということです。「想起論」これはプラトン哲学の大切な思想のひとつです。新たに知るのではなく既に知っていることを想い出している、という感じです。ソクラテスの考えでは人間の魂は不滅だから過去にはすべてを既に知っていた(プラトンの著書パイドロスでは人間はその昔、神と一緒に高みをめざした――、というシーンがありますので、人間は既に神の世界を見ている)という感じなんだと思います。
ここでソクラテスはひとりの召使いを登場させます。召使いによって想起の例を示そうというもくろみです。そしてソクラテスは召使いに幾何学の問題を順繰りと答えてもらうんです。召使いはこれまでに幾何学を学んだことがありません。それにも関わらず問いが進むにつれてソクラテスの導きによって召使いは自分のなかから答えを見つけ出すんです。召使いは問いを突き詰めていくことで自分の知識のなかから答えを拾い上げる――、想起しているとしか思えない発想を見せるんです。

どうでしょうか? 想起するという考え方。僕は現代に生きているせいか答えは「脳」にあるのではないか? なんて思ってしまいます。脳の90%は使われていないなんて言うじゃないですか。意識に上ってこない部分には我々の想像以上の素質があるのではないか――、想起しているように思えて、そもそもの能力なのでは? なんて思ったりもします。

 

徳は教えられない

また違う登場人物が顔を出します――、通りがかりのアニュトスという知恵者が話に加わるんです。この人の雰囲気は世間に認められた知恵者という感じです。
ソクラテスはアニュトスに「徳が教えられるものだとしたならば、それを教える教師がいるはず――、それは誰ですか?」とたずねます(アニュトスは仕方がない教えてやろうという感じで上から目線です)。
「あいつは違う」「こいつも違う」とやりとりを重ねたうえで、アニュトスは歴史上で徳のあると認められた人だろう結論を出します。
するとソクラテスは「だとしたら歴史上でその教えを受けた者が徳のある人間になっていのは何故か?」と重ねてたずねます。自らの子供にすらもその徳性を教えることが出来ていない――、偉大なる人物の子供が徳性を受け継いで、ひとかどの人物になっている例はないのでは? とさらに問いを重ねるんです。
するとアニュトスは怒ってしまい「ソクラテス!そんなことをしていると恨みをかうぞ!」と言い去っていきます(※プラトン著「ソクラテスの弁明」のなかでソクラテスを訴えるのが、このアニュトスです)。
ただし、ここで見えてきたのは徳は教えられるものではないという結論。それから知恵者と呼ばれている人でも結局は本当の徳を知ってはいないということ……。そのニュアンスにも何やら言いたいことがある雰囲気――、人の道しるべとなる徳、国の根幹をなすような徳のはずなのに世間に認められた政治をつかさどる者、それから知識人には本当の徳を知っている人がいないではないか、知らないのに知っていると思いこんでいる人ばかりではないか、という感じがあるような。これは約2400年前のギリシアの話ですが、今に通じるものがあるように思われます。

 

知識なのか思わくなのか

次の検討に移ります。ソクラテスとメノンは徳には知識が必要だろうと仮定します。ここで「仮定法」という論法が登場します。
そこでは仮定として知識が正しさに導いたケースと、思わくが正しさに導いたケースの比較をするんです。
知識は知っているんだから当然、正しさに導けます。ただしそれは正しく知っている場合に限ります。
一方、思わくはどうなのか? 思わくは結果に依存します。正しさに導けるときもあれば、正しくないときもあるわけです。ここでもう一歩議論は進んで「よい思わく」という言葉が出てきます。
よかれと思うとか、善意から来る――、そんな思わく? と僕は最初に思ったのですが、そうではなく。結果、正しさに導ける思わくが、よい思わくなんです。過程ではなく結果のようで――、徳性を身に着けている人がいるとすれば、それは知性によってではなく神の恵みによって思わくが具わっているということになる。正しい結果を生むときは何に導かれているのか? まさにその意思こそが神ということ――、だから徳は神の世界のものということになる。
正しさに導いかれたときに限っては、「思わく」  「知識」になります。
これでは結果論に思われそうですが……、そうではなく。もし、徳=よい思わく=神の世界のもの、とするならば徳性とは次元が違うんです。これが結論だとすれば、何かはぐらかされているようですが徳の実相(イデア)を求める気持ちがない者には理解されないという意味なのだろうと思われる。僕自身よく解っているわけではありませんが、徳性もまた「無知の知」を自覚しながら追及し続けなければならないということではないかと考えています。

 

メノン (岩波文庫)

メノン (岩波文庫)