本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

コ―マック・マッカーシー「チャイルド・オブ・ゴッド」 翻訳:黒原敏行

文学的に美しく描かれる殺人 

今作は1960年代にアメリカで実際に起きた連続殺人事件をモチーフにした作品です。この手の事実を元にした小説はいろいろあると思いますが、僕が読んだ作品のなかでパッと思いだせるのはトゥルーマンカポーティの「冷血」。マイケル・ギルモアの「心臓を貫かれて」あたり。ちなみにこの2作は徹底した取材によって作りあげられたノンフィクション・ノベル(ちなみに「心臓を貫かれて」に関しては殺人者である兄を実の弟が描くというもの)――、なのでドキュメントタッチであり、真実に則して描こうとする意図を強く感じる作品だったけれども、今作「チャイルド・オブ・ゴッド」は、どちらかというと著者の創作の面が強いと思う。というのも描写がとても文学的、かつ美しい。非道な殺人者を描くのだからこそ、人間の根底にある衝動を描こうとする――、おぞましい殺人を「成せる」ことの意味は人間を創造した者の意志であることを感じさせる。人間の本質に迫ろうとする著者の思惑は、おぞましいはずの行為を美しく描くことによって読者に戦慄を呼び起こそうとする。そして畏怖の念(おそれおののくような思い)を覚えたとしたならば、それこそが著者の意図したところなのだと思われる。

 

読者を嫌悪させる意図

正直、かなり嫌な作品です。よくこうも読者に嫌悪を呼び起こすように描けるものだと……、作家という性分の成せるわざに関心してしまいます。今作で描かれるのはレスター・バラードという一人の男について。その男の本性はページをめくるごとに徐々に徐々に(少しづつ)読者の目に明らかになっていくのですが、前半はバラードの生い立ちであり、どのような生活を送っているかにページが費やされます。
バラードは孤独な男だった。父親は自殺をし、母親はどこかの男と駆け落ちをしていなくなった。バラードは家を失い、郊外の廃墟に住み着くことになった。得意なライフルを片時も手離さなかった。栗鼠を撃ち殺して食べている。カエルも食べる。いつも汚らしい格好をしている。卑猥な目つきで女を眺めた。
バラードはある時、山道で事故を起こした車を見つけ、男女が死んでいるのを発見した。バラードはさっそく女の死体を自分の廃墟へと連れて帰る。死体を人形のように扱うバラード――、その後で屍姦をし、天井裏へと死体を隠した。
この話、感情は一切描かれません。マッカーシーの小説の特徴でもありますが、事実、事実、事実。登場人物が何を思ったのかは語られません。何が起きたのかだけが描かれます。それらの事実の描写は次なる結果に集約していくので、とにかく前へと押しやられる作風です。
登場人物の感情は読者に委ねられますが、これを読んで何を思うのか? たぶん読者にとことんまでバラードを嫌悪させようという意図なのだと思われる。こんな奴とは関わり合いたくない。人種が違うのだとでもいうように読者はバラードとの間に線を引きたくなるのではないだろうか?
話が後半にさしかかると、バラードは刹那的な殺人を犯いていくようになる。自らの欲望を満たすために殺しては廃墟へと死体を連れて帰るのです。結果、何人を殺したのか? 廃墟からは7つの死体が発見される……、しかし男の死体は運んで来ないとこを考えると、犠牲者はそれ以上であることは間違いないようである。
この後、村人たちに殺人を疑われたバラードは、問い詰められ窮地に陥ることになる。殺人現場に案内せざるを得ない状況になるなか、バラードはよく知る郊外にある洞窟へと逃げ込んで姿を消してしまうのです。

 

チャイルド・オブ・ゴットに込めた意味

マッカーシーは何故とことんまで憎まれ嫌われる人間を描いたのか? タイトル「チャイルド・オブ・ゴッド」にその意味が隠されているのだと思われる。
「チャイルド・オブ・ゴッド」=「神の子」――、バラードはそれでも神の子ということなんだと思います。
バラードこそが、ではなくバラードもまた、ということなのかと思われます。
バラードの犯した罪を肯定しなければならないという意味ではないが、もしバラードの罪を否定するならば、そもそもバラードという存在を否定した者はどうなのか? が問われているような気がします。
天涯孤独なバラード。死体に赤いドレスを着せるバラード。射的の景品である人形を何体も欲しがったバラード。廃墟でひとリ震えながら眠るバラード。実は今作の描写のなかには、どうしようもない寂しさを漂わせるところがあるんです。

もちろん悲哀を殺人の動機として認めることは出来ない。ただしいくら酷い奴とはいえバラードの犯したことは、人間に備わった感情の延長で起こったということを否定できない。自分のなかにもその可能性があるという事実を否定することはできない。
自分は絶対にバラードのような人間にはならない、と言うのはたやすい。実際のところそうはならないのでしょう。それは解る。しかしバラードのような人物が生まれたのは(つくり上げられたのは)何故なのか? 誰もがその責任の一端を担っているように思わされるのはどうしてなのか? 読後感にはどうしても、そういう問いが残される。こんなに嫌な作品なのに、なんという問いかけをしてくる話なのか……

チャイルド・オブ・ゴッド

チャイルド・オブ・ゴッド