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本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

アンドレ・ブルトン「ナジャ」 翻訳:巖谷國士 

美を追求する姿勢

ひらめき、勘、直観、予感、第六感、etc…… ある時にふと、自分の行動はそんなものに導かれているのではないか? と感じてしまうことは誰にでもあるのだと思う。著者アンドレ・ブルトンシュルレアリスムという思想の生みの親のようだが、新しい芸術の方向性としてただの現実ではなく、もっとこうひらめき的な現実(我々が現実と思っているものよりも、もう一段階上にある現実)を重視しようとしていたようです。
言葉が未熟でごめんなさい。ここら辺は詳しい人におまかせします。

ブルトンの本当に求めたシュルレアリスムの形とは「一切か、無か」という究極のものだったようです。その意味では、この本はどちらでもないのかもしれない。ただし芸術において「一切か、無か」というものが本当にあり得るのか。
……伝わってきたのはブルトンが美というものを追及する姿勢。ずいぶんと真摯だった様子がうかがえる。

シュルレアリスムを体現する女性

もう少し内容に触れながら書いてみます。
これは著者ブルトンが出会った一人の女性についての話です。
ある日、パリ市街を歩いていたブルトンが向こうから歩いてくる女性に気がついた。その女性は化粧に失敗したのか目の下が真っ黒だった。直観的に惹かれてしまったブルトンは思わず声をかけてしまう。その女性は美容室に行くところだったよう。しかしブルトンの誘いにのって、その後で一緒にカフェに行くことになる。その女性は名前をナジャと言った。それはロシア語では希望の初めの部分なのと彼女は言った。
目の下の黒さ、ロシア語のくだりの謎めいた感じ、そしてナジャという名前(偽名)。この不思議さにブルトンの直観が惹きつけられたのだと思われる。ブルトンの求めていたシュルレアリスム体現するかのような女性――、それがナジャだった。
事実、この後でブルトンはどんどんナジャに惹かれていく。例えば、ナジャと2日後に合う約束をしにも関わらず、待ちきれなくなってしまいナジャを求めてパリの街をさまよってしまう始末。
ある時にブルトンは興味を持ってもらおうとナジャに自分の本を与えるのだが、彼女はあっさりと「これは死ね」と言い表してしまう。それが正解かどうかは別として、ブルトンはナジャの発言に翻弄され続ける。ナジャにこそ求めるシュルレアリスムがあるのではないか? その思いに囚われてブルトンはナジャから抜け出せなっていく。

この小説の不思議なところはシュルレアリスムを求めるブルトン自身は現実側にいるということ。ナジャにこそシュルレアリスムが体現されているとして――、ブルトンは現実側との橋渡しの役目を果たしていることにある。そしてブルトン自身がそのことに気がついているという事実が、この後ブルトンをどんどんと引き裂いていく。そこがこの小説の魅力であり、どうしようもなく悲しいところかもしれない。

「ライオンの爪が葡萄の胸をしめつける」「自分の考えることに自分の靴の重みを負わせない」「わたしの呼吸がとまると、それがあなたの呼吸のはじまり」
それらの言葉はブルトンを更に深い場所へとナジャにのめり込ませていった。
しかし、ブルトンは次第に解らなくなってしまう。知れば知るほどナジャとの溝は深くなっていく一方だった。
そしてふと思う、自分はシュルレアリスムの価値ある体験の場にいるのだと妄想しているだけではないか? 自分にだけはその資格があると思いこんでいるだけではないか? 無防備でみじめなナジャという女を自分は利用しているのではないのか?――、と。

ナジャはこの後で、行きつく所に行ってしまう(今さらネタバレを気にしても仕方がないけど、表現は濁します)。

ナジャの破滅を知ったブルトンは相変わらず現実側にいる自分を嘆き、自分の求めた美とはいったい何だったのかを考えはじめる。そして出来れば自分自身をもう一度、ナジャが感じていた世界と似た無意識のなかに叩き落としてくれないかと願い求める。ここら辺は僕には理解し切れないけれども、その切実さには胸を打たれるものがある。
あくまでもブルトンが求めたのはシュルレアリスムという美そのものだった。そして同時にその体現であったナジャを深く愛していたことに気がつくことになる。

僕は正直なところ解っていない。見えそうで見えなかった。読み進めていると常に反転する何かのイメージがそこにはあったように思える。それが何なのか……、これに関してはずっと謎のままだと思われる。
ブルトンの「シュルレアリスム宣言 溶ける魚」という本を入手しました。こっちも読んでみようと思います。

  

ナジャ (岩波文庫)

ナジャ (岩波文庫)