本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

チェーホフ[桜の園] 翻訳:小野理子

生まれながらのサラブレッド・ラネーフスカヤ

チェーホフのなかで一番好きな作品です。再読しました。

読み返すのは久しぶりでしたが、以前にはあまり目が向いていなかったことが見えてきた気がしました。
我ながら驚きだったのですが……、桜の園の主人であるラネーフスカヤって、かなりどうしようもない人として描かれていたんですね。
以前は、ラネーフスカヤの持ち前の優雅さに気をとられていたせいか、あまり気がついていなかった……
みんなの反対を押し切って弁護士と結婚したまでは良いとして――、その後、夫に先立たれてしまうとすぐに他の男にのめり込む。あげく七歳の息子を溺死させ、悲しみに耐えきれずに男とパリへと逃避行。
地主であったにもかかわらず、収入を得る手立ては何も行わず――、男と散財、散財、散財。あげくの破産。
最終的には男に逃げられて、ようやくロシアに帰ってくる。まったくの駄目人間。一般的に言えばしょーもない女主人なのでしょう。しかし、いったい何が当時の僕の目をくらませていたのか……、それはラネーフスカヤの圧倒的な優雅さだったのだと思われます。
ラネーフスカヤってお花畑の住人なんですよね。生まれながらのサラブレッド。
こればかりは成金がどんなにあがいても手に入れられない優雅さ。例えラネーフスカヤがアホな男にのめり込んだとしても、それは庶民の色情の迷いにあらず。いや、痴情だとしてもそれすらもお上品に思えてしまう。
なんだろうな……、何もかえりみずに散財してしまうのって、無自覚だからこそ成せるんだと思うんです(もしくは正真正銘のろくでなしか……)。
テレビなどで見る生まれながらの金持ちお坊ちゃん・お譲様って金銭感覚が違うじゃないですか。最初こそ嫌味だなーと思うけれども、見ているうちに「あれれ、こいつは違うぞ。本物だ!!」ということがあるでしょう。
ラネーフスカヤはまさにそれ。しかも財産を失って自らがジリ貧になりながらも、求める者には施しをしてしまうあたりが、もはやそーゆー人間として出来上がってしまっている。
おそらく、あの手の優雅さこそが庶民にとっての憧れなんでしょうね。庶民が王族・貴族に憧れるのは金銭的な無いものねだりというよりは、あの高貴な精神が得難いものだと解っているからなもかもしれません。

 

伝わらなかったロパーヒンの思い

次に、この作品の主役のひとりである、実業家のロパーヒン。
ロパーヒンは再読でも、僕のなかの印象はほとんど変わらなかったかもしれない。どうでしょう。ロパーヒンは悪者でしょうか?
「今日から桜の園の主人はこの俺だ!!」
自らの手に桜の園をおさめた後、こんなことを言ってラネーフスカヤを傷つけますが――、僕にはこのシーンは、ロパーヒンが何かに引き裂かれてしまっているように思えて仕方がない。
冒頭でロパーヒンは小さい頃に、ラネーフスカヤが農民である自分にも分け隔てなく接してくれたことに感謝しているじゃないですか。ほっこりと昔話を語るわけですが……、きっと庶民・ロパーヒンにとっての憧れがラネーフスカヤだったということですよね。だからロパーヒンは大きくなり実業家として成功をおさめてからは、親切心から色々とラネーフスカヤにアドバイスをしたはずなんです。
このままじゃ破滅します!! なんとかしましょうよ……、と。それもこれも、ラネーフスカヤにはいつまでも優雅なラネーフスカヤでいて欲しかった、ということの裏返しだと思うんですよね。なのに聞かないラネーフスカヤ。何故ならば彼女の頭のなかはお花畑だから……。
ロパーヒンは悔しかったんだと思うんです。何故、解ってくれないだ! あなたにはあなたでいて欲しいのだ! しかし、その為には桜の園を切り売りしなければならないじゃないか!
ここら辺の人物の描き方……、見事ですよね。結局、お互いは解りあえないんですよ。そもそもが根本的に違うんですもん。でも、何が胸を打つかというと、互いは解りあえないのにそれぞれは自分の世界のなかだけでは正しくあって――、自分の生き方をまっとうしていることなのだと思うんです。
そこで生まれてしまうすれ違いは、どうしようもないことだから、これぞ人間のおかしさであり、同時に苦しみなのだと思われる。
ラネーフスカヤは愚かだけれども、それは庶民の尺度での愚かさであって、優雅であること自体は少しもブレることはなかったのだと思う。
逆にロパーヒンは自分の思いが伝わらなかったことが悔しくて――、いつまでものほほんとしているラネーフスカヤが腹立たしくて「桜の園の主人はこの俺だ!」と叫んだのだと思うんです。
その瞬間のラネーフスカヤの悲しみの表情にロパーヒンは何を見たのか……
ここら辺はたまらない。色々な感情が含まれているように思えるから、グッと胸を突かれる感じがあるんです。
これは僕の勝手な解釈に過ぎませんが。

  

桜の園 (岩波文庫)

桜の園 (岩波文庫)