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本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

サマセット・モーム「月と六ペンス」 翻訳:金原瑞人

常識とはなにか?

はてなブログにしても何にしても、そこにはそこでの常識のようなものが出来上がるものだと思う。常識、暗黙の了解、空気を読む、エトセトラ――、それらは本当に正しいものかどうか? 一度、疑ってみる必要があるのかもしれない。はてなブログをはじめたばかりの奴が何をいきなり!という書き出しですが、話は変わってサマセット・モームの「月と六ペンス」という小説を読みました。これを言い表すならば常識をひっくり返す系小説――、読者の思い込みを見事に利用して価値観を問うつくりになっているんです。ということで冒頭の書き出しと本の内容とを強引にリンクさせただけであり、別段文句があるわけではありません。以下感想です。

 

不可解な男の行動に理由をみつけたくなる

主人公は小説家の。一人称で描かれる今作、内容は私がある時に出会ったストリックランドという人物について。ストリックランドは証券会社に勤め、堅実な家族を築いていて世間一般で言うところの幸せを手にしていた。しかし彼は突然、失踪してしまう。パリにいるという情報を聞き、私はストリックランドに合いに行くことになった。おおかたの予想は浮気ではないかと考えられていた。しかしストリックランドに合った私は驚くことになる。ストリックランドが家族を捨てたのは――「芸術に目覚めたから」という理由だった。ストリックランドは40歳。それまで芸術のの字も知らなかった彼は絵を描くことに没頭したいがために単身パリに来ていたのである。浮気と疑われる女性の影は見られなかった。私が家族はどうするのか?と聞くとストリックランドは「家族?くだらない」とあっさりと切り捨てる。いったいストリックランドに何があったのか?

読んでいると「何故?」という疑問がつきまといます。とにかくストリックランドという男は酷いのです。妻と子供をいとも簡単に捨て去った。パリで新たに支援してくれる人が現れるのに、その人をもあっさりと裏切ってしまう。ストリックランドの言い分では芸術の才能のない者は人にあらず――、ということで容赦なく人々を蔑んだ。
私が「人はひとりで生きていけない。誰かとの関係を築かない人生は虚しいだけだ」と説いても聞く耳を持たなかった。
ストリックランドが変貌してしまった訳は何なのか? 常識のある読者であれば目に余るストリックランドの変わりように何かの理由を見つけたくなってしまう。こんなに酷い人間になる理由には余程のことがあるはずだ、と。

 

反対に問われることになる、なぜそうしない?

今作の秀逸さは読者の価値観をひっくり返すことにあります。終盤、読み進めていくほどに、さっきまで持っていたストリックランドに対する「何故?」が、自分に跳ね返って来はじめます。反対に――何故、自分はストリックランドのようには生きないのだろうか?と。常識とは何か?その常識に捉われて知らず知らずの内に捨ててしまったものがあるのではないのか。
人は世間を知るにつれ角が取れて丸くなる。生活や人間関係を円滑に進めるために気をつかい、時には自分の価値観を曲げてしまい迎合する。ある意味、その行為は自分の失うことに似た痛みを伴うものだから自らを労わることすら出来る。本当は違うんだ……でも、こっちが折れてやったんだ!という具合に。人間社会をやっていくための倫理観には「これ!」というほどの明確なものはない。時の流れのなかで揺れ動く中心なき中心を意識しているに過ぎないのかもしれない。
ラストでストリックランドが何を選んで生き方を決めたのかを知ると、我々はそうはなれなかった自分を知る。ここで「ハッ!」とする人は多いと思う。
名作です。数年まえに金原瑞人さんの新訳新潮文庫から装丁も新しくなって発刊されています。

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)