本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

ボルミル・フラバル「あまりにも騒がしい孤独」 翻訳:石川達夫

ボフミル・フラバル(1914-1997)はチェコの作家。若かりし頃は共産党の体制下(スターリン主義体制)で自由な出版が許されていなかった。1960年代に入りチェコスロバキアには自由化の兆しが見え始めるが1968年にソビエト軍の侵攻「プラハの春」によって再び出版物には規制がかけられた。フラバルの作品は検閲により満足な出版が出来ぬまま、地下出版や外国への亡命出版社によって刊行がされていたらしい。チェコの作家といえばミラン・クンデラが有名だけれども、クンデラはフランスに亡命しフランス語で作品を書いている。対してチェコで書き続けたフラバルは国内ではクンデラをしのぐ人気があり、世界的にも支持される作家のようです。
……と受け売りで書きましたが、僕はフラバルを読むのはこれが初めてです。

 

この話は毎日大量に運び込まれてくる古紙をプレスする、ハニチャという初老の男の心境が語られるというもの。ハニチャは処理業者に勤めていて古紙を潰すのが役割だった。リサイクルの為に古紙を圧縮して紙塊をつくるのがハニチャの仕事となる。時々、古紙にまぎれて本や雑誌や新聞がまぎれ込んでいることがあった。そんな時にハニチャはそれらを救いだし自宅へと持って帰った。美しい文章を読むことだけがハニチャにとっての生きがいだった。
これはフラバルならでは作品なのだと思う――、検閲により出版が禁じられてしまった本が潰されていく様を描くことは、暗黙裡にフラバルが作家として受けたであろう仕打ちが想像される。作品内でそれを担っているのは文学を愛してやまないハニチャという男(これはフラバルの分身とも言えるのかもしれない)。
ただ、この流れだと今作は痛ましい話に思われそうですが……、そんなことはなく、とても幻想的な描写で語られるんです。むしろハニチャについての描写は「妄想に浸る一人の男の滑稽さ」だったりする。ハニチャは酒飲みで酩酊することを好んでいた。初老の男の心境はアルコールによってふわふわと現実と虚構の間を彷徨うのである。
チェコの作家と言えばもう少し遡るとカフカ(1883-1924)がいますが――、フラバルの作風はどこかカフカに似て印象派的な雰囲気がある(ありのままの写実さではなく感覚的)。だからどれだけ古紙や本が潰されても、その描写は狂いのないプレス機がリズムを刻んでいるかのように繰り返されていき、ある意味音楽的であり悲壮感が入り込む余地はない。むしろ、何故やりきれない話なのにこんなに幻想的なのかを疑問に思ったときにその意味が反転する。例えば悲しいときに笑うことで自分を慰めるのと似て、その時の感情を受け付けられないからこそ、おぞましい事実を幻想的に描くのだと思う。ふらふらと虚構の世界を彷徨い、その妄想の広がりが美しければ美しいほど、現実のグロテスクさが際立ってくる。この手法はゆがんだ表現だと思う。しかしだからこそ、描写には狂気のようなものが宿るのだと思う。とにかくゾクっとする。フラバルは暗い事実を背景に忍ばせるのがめちゃくちゃ巧い。
話を戻します。ハニチャの家は書物であふれ返っている。ハニチャのベッドの上には彼を押しつぶすほどの本が積まれた棚があった。ネズミが書物や柱を食いあさっている。家ががかじられ欠損していき、いつの日かハニチャは数トンの本に押しつぶされることを想像する。むしろそうなることを望んでいるかのようにも思われる。とにかくハニチャにとっては本とは人生そのものだと言わんばかりなのです。
紙を潰すという忌まわしい仕事でありながらも、ハニチャは本に関わることの出来るその境遇をどこかで愛している。本とは形になった物質に過ぎず、その本質は中身(内容)である精神にある。例え本が潰されたとしても、潰しきれないものがそこにはある。それを知っているからこそハニチャはページをめくっては美しい文章を自分のなかに染み込ませている。憎むべき仕事のなかで得た偶然のめぐりあわせはハニチャにとっての生きがいになった。
それだけではない。ハニチャはプレスをする時に塊にひとつの芸術を忍ばせた。表面にはピカソやマネを、中心部にゲーテニーチェの著作を入れて紙塊を作りあげた。それはハニチャにとっての創作だった。こんな場所でも芸術が生み出された。自由な創作は自分のなかだけにあった。これらはリサイクルに回される紙塊だから、所詮はハニチャだけのこだわりに過ぎない。しかし出来あがった紙塊を見つめるハニチャの目には偉人たちの精神が宿った芸術と映るのである。
初老を向かえたハニチャはその仕事と運命を伴にして自分はこの先、救い上げた本の山のなかに埋もれて死んでいくものばかりだと思っていた。しかしそうは問屋が卸さない。時代は移ろい個人の想いのごときは社会のうねりのなかでもてあそばれていく。
この先はラストに向けてハニチャの運命が大きく転がっていくところなので内容は伏せておきますが……

今作160ページ程度の中編小説です。しかしその内容は歴史的事実を含みずいぶんと重みがあるものになっている。上では触れませんでしたが、今作は他にもいろいろなモチーフで語られます。中にはハニチェの恋愛物語だってあるし、フラバルが愛したであろう作品がハニチェの言葉によって語られたりする。それからネズミ達の争いが戦争に翻弄されたチェコの歴史の隠喩として表現されたりする。とにかくどこを読んでも面白い。二時間程で読み切れてしまうので、あっという間のつき合いですが僕にとっては濃厚で贅沢な大満足な読書となりました。 

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)

 

 

チェーホフ「ワーニャ伯父さん」 翻訳:小野理子

今作「ワーニャ叔父さん」はチェーホフの作品のなかで四大戯曲と呼ばれるもののうちのひとつです。人間の誰しもが感じるであろういかんともしがたい思いを表現した作品。言葉にし難い感情が登場人物たちの心の微妙な動きによって読者に再認識されるというもの。この作品が支持されているということは、みんながそう思っているということだから、このテーマは自分だけの悩みではないことを知ることが出来たというのもひとつの収穫。そして人間とは何故こうも面倒くさいのかに気がつかされる作品。

 

ワーニャ叔父さんとは40代半ばの中年男性。独身で妻も子もなく田舎の屋敷を守るために働き続けてきた、どちらかというと報われない男です。その屋敷には現在、ワーニャの妹(今は亡くなっている)の旦那であるセレブリャーコフという――、大学教授を引退した男がやってきている。ワーニャは若かりし頃、このセレブリャーコフという男に憧れていた。偉大な人物として敬意を払い彼のために多くの労力を費やした。ワーニャはセレブリャーコフについていけば自身の人生を豊かにするための何かが得られると信じて疑わなかったのである。しかし実際のところはどうか――、確かに大学教授として一定の地位を築いた人物である。ただ思うほどではなかった……、ワーニャの思うところでは彼の本は世間では計り知れない価値があるものになるはずだった。ただし結果としては月並みな評価しか得られなかった。ワーニャは40代半ばになってようやく知ることが出来た――、セレブリャーコフとはさほどの人物ではないということに。取り返しのつかない思い……、今さらながらに人生のいちばん輝かしい時を無駄に使ってしまったことを知ったのである。絶望――、もはややり直すことが出来ない人生。中年となった今、この先何が出来るというのか(この頃のロシアの平均寿命は60歳代か)。
加えて腹立たしいのはセレブリャーコフにはエレーナという後妻がいるということだった。エレーナは若くそして美しかった。ワーニャはエレーナに心を奪われた。しかし叶わぬ恋心。ワーニャの身もだえする思いは形を変え、セレブリャーコフへの憎しみへとなっていく。

 

これは中年となり人生を振り返った時に感じる「こんなはずではなかった」思いを書き表したもの。思い描いた通りの人生を歩んでいる人はいるとは思う。でもそうではない人のほうが多いのではないだろうか。ワーニャは女々しい男である。読んでいる最中はグチグチ言っているばかりのどうしようもない男のようにも思えたけれども、ラスト付近の「人生とはそういうものだ」という諦めにも似た捉えかたには共感するものがあった。
人間は結果となり振り返ったときにしか評価は下せないのかもしれない。ワーニャは若い頃には「生きがい」としてセレブリャーコフに奉仕したはずである。その瞬間には確かな手ごたえを感じていたのではないだろうか。若い頃というのは失敗が許される――、それは取り返しがつくという意味の裏返しである。一方、中年となってからの失敗(結果)には手遅れ感がともなってしまう。誰もが人生を良いものにしようとやってきたはずである。その為に時に身を粉にして頑張ったのではなかったか? その結果が報われないとしたならば、人生に絶望してしまうというのは解らなくはないでしょう。
チェーホフの巧さは憎しみの対象であるセレブリャーコフにエレーナという美女を与えたことにもある。セレブリャーコフが幸せそうに見えるほどにワーニャの歯ぎしりは大きくなる。ルサンチマンの思いが強くなり二人の間のコントラストが際立ってくる。
しかし当のセレブリャーコフは本当に幸せだったのか……、戯曲の舞台が切り替わりセレブリャーコフとエレーナの会話を覗いてみると、案外そうではないことが解ってくる。セレブリャーコフにはセレブリャーコフの悩みがある。
心の苦しみは誰にでもある。それは見た目では解らない。人間は相対的にしか自分の立ち位置を判断できないのかもしれない。悩みながら時に人を羨み、時に優越感に浸る――、そうやって喜怒哀楽に揺れながら自分の人生に折り合いをつけていくしかないのかもしれません。

 

ワーニャおじさん (岩波文庫)

ワーニャおじさん (岩波文庫)

 

 

サミュエル・ベケット「ゴトーを待ちながら」 翻訳:安堂信也・高橋康也

これはウラジミールとエストラゴンの二人が、ゴドーという人物が来るのを待つ話。二人はゴトーを待ちながらたわいのない話を繰り返している。舞台は木が一本だけ立っている田舎道。いつまで経ってもゴトーはやって来る様子はない。「立ち去ろうか」「いやゴトーを待たなければ」というやりとりを繰り返し、例えばいざ立ち去ろうと決めたとしても、二人はその場から動かない。
これはすべてに何かの寓意が含まれているように思われる話です。けれども一向にそれが何なのかは解らない。
とにかく不思議な作品。難しいことは書いていない。読んだ通りに頭のなかで想像が出来るし、そこではちゃんと一本のストーリーを作りあげることが出来る。でも振り返って考えてみても、それが何だったのかが解らない。しっかりと読んだのに、把握も出来たのに、全体像が解らない。それどころかそれぞれのモチーフも何だったのかすら解らない。まったくのお手上げ状態――、でも面白いものを読んだという気持ちになるのが不思議なところ。

まず気持ち悪いのがこの二人が誰なのかが解らないということ。何を目的としているのか、何故ゴトーを待っているのかが解らない。二人の関係性も解らなければ、どのような人物なのかも解らない(wikiには二人は浮浪者と書かれていたけれども、作中にはそれを示す明確な記述はない)。
解るのはひとりは足が臭くて、ひとりは口が臭いこと。やりとりのなかで「自殺をしてみようか」というくだりがあるから、二人は死を恐れている様子がない。「あれはゴトーか?」というやりとりから二人はそもそもゴトーなる人物には合ったことがないようだ。
あっけらかんとした二人のやり取りからは生々しさは感じられない。もちろん感情はある。喜怒哀楽もある。ただ我々がもつ一般的な感覚とはズレているように思われる。何かを達観しているようだけど、それでいて俗っぽいことをさらりと言ったりする。悲壮感はない。楽しげでもない。どちらかというとあやつり人形や機械仕掛けの人形の話でも聞いているような感じ。時々、二人は存在していないのでは? とも思えるし、あるいはこれは一人の人間の心のなかでのかけ合いのようにも思えたりする。
これでは何も言っていないに等しいのだけれども、ただ――、「何も言っていない」というのも、またひとつの正解のようにも思われる。とまあ、答えのないところでグルグルグルグル思考はめぐり、いつまで経ってもどこにもたどり着かない……
話のなかで動きが生まれるのは途中、ポッツィとラッキィという奇妙な人物が登場すること。何かが動き出す予感――、しかしそれでも動かない。ただただ奇妙な二人が現れる。
ポッツィはラッキーの首にロープをくくりつけている。ポッツィはこれから「ラッキーを市場に売り飛ばしに行く」と言う。ラッキーは嫌がる様子は見せない。ただ、ポッツィの言うことは何でも聞く。踊れと言われれば踊る。考えろと言われれば考える。ポッツィはラッキィの行動は自分に気に入られたいがためにやっていると言う。ポッツィはラッキィと自分の立場について、互いは「そう生まれついたのだ」という哲学を披露する。それがこの世界を表す言葉かと言われれば、そうとも思えるし、空疎なたわごとにも思える。
他にも四人が集まるこのシーンでのやりとりは色々とある。ポッツィが食べ終えた骨付きの肉をエストラゴンが拾い上げて、しゃぶりつくという面白い場面が描かれたりする。ただ基本的には何も起きない。やがてポッツィとラッキィは去っていく。
そして日が暮れかけるころになり、一人の少年がゴトーの伝言を告げにやってくる。「ゴトーは今日は来れないが、明日は来ると言っている」と二人は少年に言われて、第一幕が閉じていく。

第二幕もほとんど構図は同じです。あいかわらずゴトーはやってくる様子はありません。途中でポッツィとラッキィは再び現れます。その時、何故だかポッツィは盲になっている。ポッツィは転んで立ち上がることが出来ずにウラジミールとエストラゴンの二人に助けを求めたりする。ここでは第一幕では偉そうにしていたポッツィの落ちぶれた様子が描かれる。その他、変わった点としてポッツィは二人のことを覚えていない。二人はポッツィのことをはっきりと覚えている。
第二幕がはじまった時には、第一幕の翌日だとばかり思っていたのに(疑うこともなかったのに)ポッツィが現れると急にそれが疑わしくなっていく。一幕と二幕との間にはずいぶんと隔たりがあるのか、それでもやはり翌日なのか……。二幕ではそれだけではなく今が夕方なのか朝なのかすらも解らなくなっている。混沌とした様子は一幕よりもさらに色濃くなっている。流れは第一幕同様にポッツィとラッキィは去っていき、その後で少年がやってきてゴトーの伝言を告げていく。
つまりは多少の変化はあるもののゴトーを待つという目的は達成することが出来ずに終わっていく。あるいは繰り返しを予感させる。永遠にウラジミールとエストラゴンの二人はゴトーを待ち続けるのではないか?と想像してしまう。とまあ終わりと始まりとでは、ほとんど何も変わらないままこの話は終わっていく。

本を置いて色々と考えてみたけれども、一向に何も解らない。ゴトーが「ゴッド」に似ているだとか、ゴトーは死を表現しているだとか、ネットを覗けば色々な解釈が成されているようです。そう言われるとそんな風に思えるし、そうかなーと疑いたくもなる。時々、突拍子もない解釈があって面白いなーと関心してしまうこともあった。自分を含めて誰もが答えを見つけたがっている。それぞれのなかで何かの解釈が生まれて消えていく。人は自分が見たように見る。だから僕も僕なりにいろいろと解釈しながら読んでいたように思う。あらためて考えたところで何かが生まれるとも思えない。ただページをめくっていた瞬間瞬間に生まれていたものこそが、この本から得た大切な手触りだったようにも思える。とまあ何を書いても残念ながら曖昧なことしか言えないような…… でも今作はそれで言いように思える。いつかまた再読したときには、その時の解釈があるのだと思う。

 

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)