本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

ソール・ベロー「犠牲者」 翻訳:大橋吉之輔

ユダヤ人であるレヴィンサールは、ユダヤ人であるがゆえに世間から偏見を持たれていた。ジュー(ユダヤ人=ジューイッシュの略)と呼ばれ、怒りっぽい、傷つけられると復讐する、金にうるさい、と世間から思われていた。時々「ジューのくせに」と理由もなく揶揄されることがあり、ユダヤ人であるがために何かとおかしな目で見られることがあるとレヴィンサールは感じていた。
業界紙の編集として活躍するレヴィンサール。彼は下積みを重ね、これまでに実績を上げてきたこともあり、会社からはいなくてはならない存在として認められている。今現在籍をおいている会社は規模からいって望み通りというわけではない――、しかしその昔、職探しに苦労した記憶があるレヴィンサール――、彼は野心や向上心を持ちながらも、現状にはそれなりの満足を覚えていた。
ある時にレヴィンサールに浮浪者風の男が語りかけてきた。それは昔の知人のオールビーという男だった。落ちぶれた恰好に驚いていると、オールビーは不敵な笑みを浮かべながらレヴィンサールにつめ寄ってくる。そして「このような姿になったのはおまえのせいだ!」と言うのである。
まったく身に覚えのないレヴィンサール。しかしオールビーは翌日からレヴィンサールにつきまとい始めた。金をせびり、脅迫をし、就職を紹介しろと言い出し始めた。レヴィンサールを待ち伏せ、普段の生活の場にも顔を出し「いつでも見張っているぞ!」と言わんばかりの異常な行動とりはじめる。
いかれた男のたわごとだと無視をしていたレヴィンサールだったが、ある時に友人の一人からオールビーが仕事をクビになった原因のひとつにレヴィンサールに関わっていることを聞かされる。
その昔、就職が決まらなかったレヴィンサールはオールビーの紹介で彼の会社の面接を受けたことがあった。面接相手は鼻もちならない奴だった。最初から採用するつもりがないことはハッキリと見てとれた。頭にきたレヴィンサールは暴言ともとれる捨て台詞をはいて面接を打ち切った。つまりそのことがクビの原因となったというのがオールビーの言い分だった。
しかし明らかに原因は他にある。酒癖が悪く、業績を上げられない出来の悪い社員だったオールビーをいつかクビにしようかと手ぐすねを引きながら待っていた会社側にとって、レヴィンサールの面接が恰好の理由となっただけである。

それなのにオールビーに逆恨みをされる結果となった。こんな馬鹿なことがあるか……と思うレヴィンサールだが、オールビーからつけまわされて、これまでの平和な日常が一変し混乱に巻きこまれていくことになる。

 

この話はユダヤ人として差別を受ける側(犠牲者)だったレヴィンサールが、実は加害者の側に立っていたという構成になっている。とは言えオールビーのクビの話は誤解だからレヴィンサールは本当の加害者ではない。それでもベローがこの話を書いた目的はレヴィンサールに「無自覚な加害者」という役割を押しつけることにある(読み進めるうちにそれを読者に暗黙裡に気がつかせる)。
上で書いたあらすじはこの小説の最初から最後までをつなぐ一本の大きな流れです。ただその中で知らず知らずの内にレヴィンサールのような人物によっていろいろな犠牲者が生まれている事実をこの話は書いていく……、犠牲者と書くとずいぶんと被害が大きく思われそうですが、この小説が表現するものは、つくり上げられた社会構造によって生まれてしまう犠牲者のこと。社会の仕組みに馴染めない者が受ける仕打ちを今作は「犠牲者」として表現している。
レヴィンサールは出来る人間です。素質としてそもそも社会に馴染める人間。就職でこそ苦心はしたけれども何だかんだで世間に折り合いをつけることが出来る人間である。要するに普通の人間、今のこの社会生活をこなせる人間――、レヴィンサールは多少人として癖はあるものの、ごくごく一般的な人間(つまり我々読者の代弁者)なのだと思う。
一方、オールビーはそうではない。落伍者――、上手く世間に馴染めない人間。
この小説の巧さは……、自らの意志によって身を崩していくオールビーの姿をしっかりと読者に焼き付けたことにある。レヴィンサールは悪くない。結局はオールビーの自業自得ではないかと思わざるを得ないような描写が続いていく。オールビーは口先ばかりだった。「仕事を探している」「立ち直るつもりだ」と言いながら出版業界に職を求めるオールビーは今のままではそれが叶わないことを薄々は知っている。「仕事は何でもいいわけではない」と言うだけで現実を見つめることを避けている。それなのに現状を直そうとするわけでもなく、ただ堕落した生活を続けている。まったくのカス。何故こんな奴のためにレヴィンサールは何かをしてやらんといけないのかと思わされる。

 

しかしこの小説は読み進めていくと、本当にそうとしか生きられない人間がいることに気が付かされる。オールビーがまさにそれである。社会の常識と言われるものは本当に全ての人を網羅しているのか? 誰しもが人生を悪くしようと思っているわけではない。生まれながらにそれぞれが持たされた資質。本人は必至でやっているつもりでも、それが世間での評価と一致しないことは起こり得る。
価値や基準はそれぞれのなかにあり、例えばレヴィンサールは俺は頑張ってこの立場を築いたのだと言う。悪いのは努力を怠っている人間ではないのか?と言う。たぶんそれは世間で言う一般常識に適応できる人間だからこその発言。やりたくても出来ない人間のことは考えられてはいない――、というか意識をもされていない。だから読者は読み進めていく内にオールビーとのレヴィンサールの間に乖離を見つけて、レヴィンサールのなかのエゴイズムを発見する。そして鏡を見るように自分のなかにある同じ思いに気がつかされることになる。 

レヴィンサールの思い込み。出来る男として世間から認められたがゆえに、いつしか自分の考えが世の中の標準だとでも言うように考え始めてしまう――、ただ、これは誰にでも思い当たる部分があることだと思う。ある意味、人は誰かに認められていなくても自分だけは自分の考えを正しいと思ってしまうものではないのだろうか。
そんな人々の総体で出来上がった社会というものは、あんがい許容する力が欠けているのかもしれないと思わされる。自分の考えと社会の考えがおおよそ同じときに、そこから外れる人たちを認められるのか? そういう人たちがどういう生きにくさを抱えているのかを想像できるのか?
ベローが今作を描いたのはそういう気づきを与える目的なのだと思う。1947年の作品なので時代背景は違うけれども、これは他人を理解しきれない人間の普遍的な部分を浮き彫りにしたものなのだと思う。ソール・ベロー(1915-2005)は古典枠でもないから、やや古い作品というあつかいとなって最近ではあまり読まれない作家なのかもしれない。今では絶版本ばかり……、最寄りの図書館にも置いていない。でも読めば納得のノーベル文学賞受賞作家。他にも全米図書賞を三度受賞し、ピュリッツァー賞もとっている凄い人。僕はベローの作品は2つしか読めていないけれども、すっかりファンです。ベローの名を見ると脊髄反射が起こります。もう一冊「宙ぶらりんの男」という作品を積んでいるので遠くない内に読んでみようと思います。

 

犠牲者 (白水社世界の文学)

犠牲者 (白水社世界の文学)

 

 

アリス・ウォーカー「カラーパープル」 翻訳:柳沢由美子

話題になることには、どんな意味があるのか?

黒人女性初のピュリッツァー受賞作品――、そのニュースがアメリカを駆け回った時に著者であるウォーカーは言っている。「黒人であること、女性であることに話題性が生まれる意味は何なのか?」と。
というのも今作で描いているのは1900年代前半の黒人女性について。この時期、差別のヒエラルキーでは相当下に位置していた黒人女性を描いた話であり、内容はもちろん差別を問うものになっている。栄誉ある賞を受賞したのが黒人女性――、そこに話題性が生まれるということは「あいかわらず……」とウォーカーは言いたかったのでしょう。今作が描かれたのは1983年なので世間の空気は現在とは違います。

というか……、周りに日本人しかいない環境で暮らしている僕にとっては黒人に対する差別がどういうもので、どう変化を遂げていったのかの詳しいところは解りません(知っているのは映画や本の内容程度)。10年後の1993年には黒人作家のトニ・モリスンがノーベル文学賞を受賞。その後、黒人女性初の宇宙飛行士、初のプリンシパルダンサーなどなどを経て、2009年に黒人初のオバマ大統領。まあ、いわずもがなそう言うことなんでしょう。

 

差別は差別でも……

冒頭、セリー(主人公の黒人女性)が父親にレイプされるシーンからはじまる。実は今作、白人と黒人との差別を描くのではなく黒人のなかでの差別を主に描くというもの。父親を含めた男たちは女を道具として扱った。殴る蹴るはあたりまえ――、反抗は許さない。女は男にとって従順な存在でなければならないとでも言うように、力でねじ伏せる描写が続いていく(いや、そこまで直接的な描写は多くはない。ただ暗黙裡にそうと解るシーンは多い)。セリーにはネッティという妹がいた。可愛い妹――、なによりも大切な妹だった。父親はネッティをも狙っていた。だからセリーはすすんで自らを犠牲にし辱めを受け続けた。セリーにはネッティだけが希望だった。ネッティが汚されることを自分が汚されるよりも嫌っていたのである。
セリーと父親との間に2人の子供が生まれていた。しかし生まれてすぐに殺されてしまったのか、赤ん坊はいつのまにかいなくなっていた。そしてある日にセリーは用済みとばかりに嫁に出された。「こいつは働く女だ」との父親の勧めによって、名前も知らないミスター**の元に嫁がされることになる(作中での描写もずっと「ミスター**」になっている)。
といった感じで、これはセリーの悲惨な展開がずっと続いて行く話です。もちろんミスター**は父親に似たろくでなし――、だからこの時期の黒人女性が受けたであろう苦しみを体現するかのようにセリーは一身に悲劇を受けることになるわけです。だからセリーは次第に心を閉ざしていく。新しい家族とのあいだに愛情は生まれるわけもなく、ただただ自らの体を道具にして心を殺すことで日々をやり過ごしていく。その中でかすかな光を放っているのがネッティという存在。もはや妹とのやりとりが出来ない環境での生活になってしまったけれども、セリーはネッティが無事で、元気で、彼女らしい愛らしさを保っていてくれているかもしれない……、という「可能性」を希望にしているのです。

 

差別を生むものは何か?

つらい話です。著者ウォーカーは何故これを描いたのか? この話は「あったであろう過去」を現在に知らしめるために書かれたものか? それとも悲惨な事実を人間社会の不条理として描いたものか? 
実は、どちらも違う。この話は進むにつれてセリーという一個人の物語を越えて「差別を生むものは何か?」という問いに形を変えていく。というのもセリーはある日にミスター**が隠していた何通もの手紙を見つけてしまう。それはネッティが書いたもの――、離れ離れになった後にネッティはずっとセリーに手紙を書き続けていたんです(ミスター**が見られないように隠していた)。そこに書かれていたネッティのその後の事実――、彼女はキリスト教の宣教師の手伝いとしてアフリカで生活している。同じ黒人としてアフリカにいる人々の手助けをするために、現地の人々に言葉や勉強を教えたのです。
おお、よかったじゃん! と言いたいところだけれども、そうではない。ここではアフリカの人達にとって宣教師なるものは求められていたのか? ということが問われることになる。先進国の人々が新しい技術やら知識を教えるという構図は悪くないように思われる。発展がよいものだとすれば、技術は何より尊いもののはずなのだが……
しかし実際のところはどうなのか? ここら辺はあまり世間では問われないところだけど、もしかしたら現地の人々にとっては「余計なお世話」なのかもしれない。著者ウォーカーが明らかにしていくのは、良い悪いは別としてそれは「一方的」であるということでした。もちろんネッティの活動は良心からくるものだった。しかしネッティは「ここにはここでの文化がある」という事実にゆくゆく気が付いていく。しかし時代は植民地政策へと舵が切られていき、現地では押し付けるかたちで事業が進められていった。
アフリカの人達はその昔、貧困ゆえに払えるものがなく奴隷として身内を欧米人に差し出した。その奴隷がアメリカに渡り、時は過ぎ今では宣教師として技術を伝える者としてやってくる。アフリカの人達にとっては「おかえりなさい」あるいは「あの時は申し訳なかった」とでも言う関係のはずなのに、互いはもはや同じ黒人ではなくなってしまっている。
その違いを生んだものは何なのか? 差別は肌の色などではない。ネッティの苦悩が手紙につづられるなか、セリーのまわりでもインディアンとの間に同様な問題が起きている。どこにでも起きうる問題――、白人が黒人を、男が女を、富める者が貧しい者を、強い者が弱い者を、なんだっていいけれども……、そこでは互いの価値観を認め合うことが出来ないから衝突が起きるのかもしれない。相手の生き方を想像できないからエゴイスティックな押しつけをしてしまうのかもしれない。
著者ウォーカーが今作のテーマにしているのは、そういうことだと思われる。悲惨な境遇にあった女性ですら見方をかえると立場がかわってしまう。人は悲しいかな無自覚に誰かを傷つけているのかもしれない。

もちろん今作はそういう視点だけを読む話でもない。セリーのその後はどうなるのか、ネッティとの再開を果たせるのか? というドラマを追うのもいい。なによりも一人の女性の物語として、喜怒哀楽がいっぱいつまっていて読みごたえはたっぷりです。1900年代前半から始まり1900年代半ばくらいまで(約60年くらい)を描いているので、そのなかで何が変わっていったのかを読むのも面白いかもしれない。

 

カラーパープル (集英社文庫)

カラーパープル (集英社文庫)

 

 

ロベルト・ボラーニョ「ムッシュー・パン」 翻訳:松本健二

とある詩人にあてた作品

図書館の新刊本コーナーで見つけた一冊。以前から気になっていたロベルト・ボラーニョが置いてあって……どれどれ、奥付を見てみると……発刊されたばかりではないか! やったー(古典をよく読む僕ですが、実は新しいものが好きなんです)。ということで、かっさらうように借りてきて他の本を押しのけて読んだ一冊。
読後の感想はというと……あまりよく解らなかった。
難しかったという訳ではない。何かを読み逃したという感じでもない。おおよその筋はつかめたような気はしている。でもこのプロットにして、このオチ……解ると言えば解るけど、そこまでの話ではなかったように思える。今作には「コレだ!」という何かを感じられなかった。自分の感性とは合わない作家さんなのか……と疑ったまま「あとがき」をパラパラとめくってみると合点がいった。なるほど、これはこの作家を読むにあたって一冊目に選んではいけない作品だった。
というのも今作はボラーニョが敬愛した、ペルーの詩人セサル・バジェホにあてた作品。著者としては思い入れのある作品のようだが、読み手にすればその詩人であり、ボラーニョ自身についての愛着がなければ、意図をくみ取りきれない作品なのかもしれない。

 

あらすじ

催眠術を会得しているピエール・パン(主人公)がある日に、友人のマダム・レノー夫人(未亡人)からバジェホを診てほしいと頼まれる。バジェホは病院で死の床についているのだが「しゃっくり」だけが止まらない。医師すらも直せない状況のなかで最後の手段――、神秘的な力にすがろうとメスメリスム(動物磁気論)のつかい手であるパンに声がかかったのである。
レノー夫人に好意をよせるパンは依頼を受けて後日バジェホの病院を訪れようとするのだが、謎のスペイン人がパンの行く手に待ったをかける。
「バジェホの治療は行うな!」と言われるパン。金を渡され手を引くことを約束させられ――、背後になにやら怪しげな陰謀があるのではないか? という問いだけが残された。
その後、スペイン人の影になやまされるパン。不気味さだけがいつまでの身の回りを離れない。一方でレノー夫人との約束をも果たさねばならず……、こっそりと病院に忍び込みバジェホの様子を見てみると「この状態は自分には直せる」ことを確信する。なんとしてでも助けなければと思うパンだったが……
その頃、レノー夫人は姿を消し、あいかわらずスペイン人にパンを見張っている。時を同じくしてスペインで勃発した内線、戦争(第二次世界大戦)が忍び寄る。何かがパンの周りでは起こっている。いったい何が? 疑心暗鬼のまま日々を過ごすのだが――、ある日にパンはとある報せを知り、ひとつの結末を向かえたことを知る(結末をネタバレしないよう表現は濁します)。

 

魔術的リアリズムにうってつけの人物

バジェホは実在の詩人だが、実はピエール・パンも実在の人物らしい(とは言え、こちらは有名人ではない)。バジェホ夫人の回想録にはその名前がのっていて、バジェホが腸膜炎を悪化させたときに入院先に「磁気治療師」を呼び寄せたようだが――、それこそがピエール・パンだった。バジェホはパンの治療により調子が良くなったらしく翌日もパンに来てもらうはずだったが、次の日に病院の入口でパンは止められてしまい治療は行えなかったという記載が残っているらしい。そしてバジェホはその一週間後に亡くなったのだとか……
そもそもバジェホという詩人は死後に名前が広まった人物のようで、生前は貧しくて病院でもあまり良い対応を受けていなかったのだとか。おそらくボラーニョは敬愛する詩人を小説のなかでよみがえらせたかったのだと思う。歴史の「if」を選択し直してやりなおさせることが出来るのは作家の専売特許。ある時に少しだけでもバジェホを救った(心地よさを味あわせた)ピエール・パンの実際のエピソードを知ったときに、今作は生まれたのだと思われる。回想録に残っていた不思議な治療をほどこしたパンという人物――、ここ最近の南米文学が得意とするマジックリアリズムを描くとしたら、うってつけの主人公ではないか。これは僕の勝手な想像にすぎませんが、今作はそういった事実(人物たち)に対する敬意によって描かれたのではなかろうか。
あとがきで今作が生まれた経緯を知ると少しだけしみじみ出来ました。振り返るとピエール・パンという人物像には確かなユニークさがあった。レノー婦人に好意をよせるパン。謎のスペイン人におびえるパン。自分の能力をひらめかせるパン。ピエール・パンという人物の描写はほとんどがボラーニョの創作(回想録にはわずかな記載だけ)なのでしょう。どこか愛嬌を感じさせるその人物像は詩人への愛が転じて生まれたもなのでしょう。
本来であれば本文から感動を味わいたかったので、今回はあまりいい読書ではなかったけど、これはこれで今後ボラーニョ作品を読んでいくなかでの物差しにはなるはずです。次は代表作「2666」「通話」など、そっちを挑戦してみようと思います。

 

ムッシュー・パン (ボラーニョ・コレクション)

ムッシュー・パン (ボラーニョ・コレクション)