本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

アリス・ウォーカー「カラーパープル」 翻訳:柳沢由美子

話題になることには、どんな意味があるのか?

黒人女性初のピュリッツァー受賞作品――、そのニュースがアメリカを駆け回った時に著者であるウォーカーは言っている。「黒人であること、女性であることに話題性が生まれる意味は何なのか?」と。
というのも今作で描いているのは1900年代前半の黒人女性について。この時期、差別のヒエラルキーでは相当下に位置していた黒人女性を描いた話であり、内容はもちろん差別を問うものになっている。栄誉ある賞を受賞したのが黒人女性――、そこに話題性が生まれるということは「あいかわらず……」とウォーカーは言いたかったのでしょう。今作が描かれたのは1983年なので世間の空気は現在とは違います。

というか……、周りに日本人しかいない環境で暮らしている僕にとっては黒人に対する差別がどういうもので、どう変化を遂げていったのかの詳しいところは解りません(知っているのは映画や本の内容程度)。10年後の1993年には黒人作家のトニ・モリスンがノーベル文学賞を受賞。その後、黒人女性初の宇宙飛行士、初のプリンシパルダンサーなどなどを経て、2009年に黒人初のオバマ大統領。まあ、いわずもがなそう言うことなんでしょう。

 

差別は差別でも……

冒頭、セリー(主人公の黒人女性)が父親にレイプされるシーンからはじまる。実は今作、白人と黒人との差別を描くのではなく黒人のなかでの差別を主に描くというもの。父親を含めた男たちは女を道具として扱った。殴る蹴るはあたりまえ――、反抗は許さない。女は男にとって従順な存在でなければならないとでも言うように、力でねじ伏せる描写が続いていく(いや、そこまで直接的な描写は多くはない。ただ暗黙裡にそうと解るシーンは多い)。セリーにはネッティという妹がいた。可愛い妹――、なによりも大切な妹だった。父親はネッティをも狙っていた。だからセリーはすすんで自らを犠牲にし辱めを受け続けた。セリーにはネッティだけが希望だった。ネッティが汚されることを自分が汚されるよりも嫌っていたのである。
セリーと父親との間に2人の子供が生まれていた。しかし生まれてすぐに殺されてしまったのか、赤ん坊はいつのまにかいなくなっていた。そしてある日にセリーは用済みとばかりに嫁に出された。「こいつは働く女だ」との父親の勧めによって、名前も知らないミスター**の元に嫁がされることになる(作中での描写もずっと「ミスター**」になっている)。
といった感じで、これはセリーの悲惨な展開がずっと続いて行く話です。もちろんミスター**は父親に似たろくでなし――、だからこの時期の黒人女性が受けたであろう苦しみを体現するかのようにセリーは一身に悲劇を受けることになるわけです。だからセリーは次第に心を閉ざしていく。新しい家族とのあいだに愛情は生まれるわけもなく、ただただ自らの体を道具にして心を殺すことで日々をやり過ごしていく。その中でかすかな光を放っているのがネッティという存在。もはや妹とのやりとりが出来ない環境での生活になってしまったけれども、セリーはネッティが無事で、元気で、彼女らしい愛らしさを保っていてくれているかもしれない……、という「可能性」を希望にしているのです。

 

差別を生むものは何か?

つらい話です。著者ウォーカーは何故これを描いたのか? この話は「あったであろう過去」を現在に知らしめるために書かれたものか? それとも悲惨な事実を人間社会の不条理として描いたものか? 
実は、どちらも違う。この話は進むにつれてセリーという一個人の物語を越えて「差別を生むものは何か?」という問いに形を変えていく。というのもセリーはある日にミスター**が隠していた何通もの手紙を見つけてしまう。それはネッティが書いたもの――、離れ離れになった後にネッティはずっとセリーに手紙を書き続けていたんです(ミスター**が見られないように隠していた)。そこに書かれていたネッティのその後の事実――、彼女はキリスト教の宣教師の手伝いとしてアフリカで生活している。同じ黒人としてアフリカにいる人々の手助けをするために、現地の人々に言葉や勉強を教えたのです。
おお、よかったじゃん! と言いたいところだけれども、そうではない。ここではアフリカの人達にとって宣教師なるものは求められていたのか? ということが問われることになる。先進国の人々が新しい技術やら知識を教えるという構図は悪くないように思われる。発展がよいものだとすれば、技術は何より尊いもののはずなのだが……
しかし実際のところはどうなのか? ここら辺はあまり世間では問われないところだけど、もしかしたら現地の人々にとっては「余計なお世話」なのかもしれない。著者ウォーカーが明らかにしていくのは、良い悪いは別としてそれは「一方的」であるということでした。もちろんネッティの活動は良心からくるものだった。しかしネッティは「ここにはここでの文化がある」という事実にゆくゆく気が付いていく。しかし時代は植民地政策へと舵が切られていき、現地では押し付けるかたちで事業が進められていった。
アフリカの人達はその昔、貧困ゆえに払えるものがなく奴隷として身内を欧米人に差し出した。その奴隷がアメリカに渡り、時は過ぎ今では宣教師として技術を伝える者としてやってくる。アフリカの人達にとっては「おかえりなさい」あるいは「あの時は申し訳なかった」とでも言う関係のはずなのに、互いはもはや同じ黒人ではなくなってしまっている。
その違いを生んだものは何なのか? 差別は肌の色などではない。ネッティの苦悩が手紙につづられるなか、セリーのまわりでもインディアンとの間に同様な問題が起きている。どこにでも起きうる問題――、白人が黒人を、男が女を、富める者が貧しい者を、強い者が弱い者を、なんだっていいけれども……、そこでは互いの価値観を認め合うことが出来ないから衝突が起きるのかもしれない。相手の生き方を想像できないからエゴイスティックな押しつけをしてしまうのかもしれない。
著者ウォーカーが今作のテーマにしているのは、そういうことだと思われる。悲惨な境遇にあった女性ですら見方をかえると立場がかわってしまう。人は悲しいかな無自覚に誰かを傷つけているのかもしれない。

もちろん今作はそういう視点だけを読む話でもない。セリーのその後はどうなるのか、ネッティとの再開を果たせるのか? というドラマを追うのもいい。なによりも一人の女性の物語として、喜怒哀楽がいっぱいつまっていて読みごたえはたっぷりです。1900年代前半から始まり1900年代半ばくらいまで(約60年くらい)を描いているので、そのなかで何が変わっていったのかを読むのも面白いかもしれない。

 

カラーパープル (集英社文庫)

カラーパープル (集英社文庫)

 

 

ロベルト・ボラーニョ「ムッシュー・パン」 翻訳:松本健二

とある詩人にあてた作品

図書館の新刊本コーナーで見つけた一冊。以前から気になっていたロベルト・ボラーニョが置いてあって……どれどれ、奥付を見てみると……発刊されたばかりではないか! やったー(古典をよく読む僕ですが、実は新しいものが好きなんです)。ということで、かっさらうように借りてきて他の本を押しのけて読んだ一冊。
読後の感想はというと……あまりよく解らなかった。
難しかったという訳ではない。何かを読み逃したという感じでもない。おおよその筋はつかめたような気はしている。でもこのプロットにして、このオチ……解ると言えば解るけど、そこまでの話ではなかったように思える。今作には「コレだ!」という何かを感じられなかった。自分の感性とは合わない作家さんなのか……と疑ったまま「あとがき」をパラパラとめくってみると合点がいった。なるほど、これはこの作家を読むにあたって一冊目に選んではいけない作品だった。
というのも今作はボラーニョが敬愛した、ペルーの詩人セサル・バジェホにあてた作品。著者としては思い入れのある作品のようだが、読み手にすればその詩人であり、ボラーニョ自身についての愛着がなければ、意図をくみ取りきれない作品なのかもしれない。

 

あらすじ

催眠術を会得しているピエール・パン(主人公)がある日に、友人のマダム・レノー夫人(未亡人)からバジェホを診てほしいと頼まれる。バジェホは病院で死の床についているのだが「しゃっくり」だけが止まらない。医師すらも直せない状況のなかで最後の手段――、神秘的な力にすがろうとメスメリスム(動物磁気論)のつかい手であるパンに声がかかったのである。
レノー夫人に好意をよせるパンは依頼を受けて後日バジェホの病院を訪れようとするのだが、謎のスペイン人がパンの行く手に待ったをかける。
「バジェホの治療は行うな!」と言われるパン。金を渡され手を引くことを約束させられ――、背後になにやら怪しげな陰謀があるのではないか? という問いだけが残された。
その後、スペイン人の影になやまされるパン。不気味さだけがいつまでの身の回りを離れない。一方でレノー夫人との約束をも果たさねばならず……、こっそりと病院に忍び込みバジェホの様子を見てみると「この状態は自分には直せる」ことを確信する。なんとしてでも助けなければと思うパンだったが……
その頃、レノー夫人は姿を消し、あいかわらずスペイン人にパンを見張っている。時を同じくしてスペインで勃発した内線、戦争(第二次世界大戦)が忍び寄る。何かがパンの周りでは起こっている。いったい何が? 疑心暗鬼のまま日々を過ごすのだが――、ある日にパンはとある報せを知り、ひとつの結末を向かえたことを知る(結末をネタバレしないよう表現は濁します)。

 

魔術的リアリズムにうってつけの人物

バジェホは実在の詩人だが、実はピエール・パンも実在の人物らしい(とは言え、こちらは有名人ではない)。バジェホ夫人の回想録にはその名前がのっていて、バジェホが腸膜炎を悪化させたときに入院先に「磁気治療師」を呼び寄せたようだが――、それこそがピエール・パンだった。バジェホはパンの治療により調子が良くなったらしく翌日もパンに来てもらうはずだったが、次の日に病院の入口でパンは止められてしまい治療は行えなかったという記載が残っているらしい。そしてバジェホはその一週間後に亡くなったのだとか……
そもそもバジェホという詩人は死後に名前が広まった人物のようで、生前は貧しくて病院でもあまり良い対応を受けていなかったのだとか。おそらくボラーニョは敬愛する詩人を小説のなかでよみがえらせたかったのだと思う。歴史の「if」を選択し直してやりなおさせることが出来るのは作家の専売特許。ある時に少しだけでもバジェホを救った(心地よさを味あわせた)ピエール・パンの実際のエピソードを知ったときに、今作は生まれたのだと思われる。回想録に残っていた不思議な治療をほどこしたパンという人物――、ここ最近の南米文学が得意とするマジックリアリズムを描くとしたら、うってつけの主人公ではないか。これは僕の勝手な想像にすぎませんが、今作はそういった事実(人物たち)に対する敬意によって描かれたのではなかろうか。
あとがきで今作が生まれた経緯を知ると少しだけしみじみ出来ました。振り返るとピエール・パンという人物像には確かなユニークさがあった。レノー婦人に好意をよせるパン。謎のスペイン人におびえるパン。自分の能力をひらめかせるパン。ピエール・パンという人物の描写はほとんどがボラーニョの創作(回想録にはわずかな記載だけ)なのでしょう。どこか愛嬌を感じさせるその人物像は詩人への愛が転じて生まれたもなのでしょう。
本来であれば本文から感動を味わいたかったので、今回はあまりいい読書ではなかったけど、これはこれで今後ボラーニョ作品を読んでいくなかでの物差しにはなるはずです。次は代表作「2666」「通話」など、そっちを挑戦してみようと思います。

 

ムッシュー・パン (ボラーニョ・コレクション)

ムッシュー・パン (ボラーニョ・コレクション)

 

 

J.M.クッツェー「夷荻を待ちながら」 翻訳:土岐恒二

冒頭のあらすじ

舞台は帝国領の辺境にある、とある城壁都市。主人公はその地で長らく民政官を務めていた初老の「私」。郊外には夷狄と呼ばれる土着の民族――、遊牧民、漁を生業にする種族、なにやら不明な蛮族などなどがいる。とにかく帝国の境目である辺境の地とは、中心都市と違って異文化との接触がすぐそばにあるところ。
ある時に中央からひとりの軍人がやってくる。ジョル大佐と言われるその人は「夷狄が帝国に攻め入ろうとしているという情報を得た」という理由から、近辺に出没する夷狄を捕まえはじめる。そして大佐は連行してれきた夷狄に対して取り調べという名のもとの「拷問」をしはじめる。人権などは無視をして、とにかく痛めつけることで夷狄から何かを聞き出そうとこころみる。
これに反発するのが主人公の「私」。それもそのはずで「私」は民政官としてこの地の安定して治めるために、これまでに夷狄との間に良好な関係を築いていた――、年に数回程度だがに互いは交流し、特産品やら鉱物資源やら食料などを交換し持ちつ持たれつの関係を保っていた。そもそも「私」が知っている夷狄には帝国に攻め入ろうとする野心を持つものはいなかった。それどころか日々の暮らしを送るので精一杯……、そんな文化レベルの低い者たちも多かった。
ジョル大佐が連行してきたのはそういう連中である。「私」の目には無害な人々を連れてきて意味もなく痛めつけているだけの、まったく見当違いな愚かな行為にしか思えなかった。だから「私」はジョル大佐に進言する。しかしそれによって「私」は目をつけられることになる。

 

夷荻は来るのか?

地方政治が中央の権威を笠にきた武力(軍)によって侵されていき、次第にジョル大佐やその取り巻きの独壇場になっていく。力によっておさえこまれた都市では「私」の意見など聞き入られるわけはない。夷狄討伐と決まれば、現状がどうこは関係ない――、討伐との命なのだから「討伐」が絶対となる。あるのは命令――、それが軍側の唯一の行動原理。
この話は著者クッツェ―の想像によって生み出された帝国の物語だけど、こんな融通のきかない話はよくある話。着工してしまった事業がいざ始まった途端に間違いが見つかったにも関わらず、それまでに積み重ねられた事実が枷となり止めるに止められなくなったなんてケースは、あることなのだと思われる。ただしこの話により重もみが加わるのは人の命が関わるから――、転がり始めたが最後、それが止まれないまま無益な争いが起こってしまうとしたら、そんなに愚かなことはない。クッツェーがこの話のベースとして意識させるのはそういうことなのだと思われる。
加えてこの物語に面白味が生まれるのは「夷荻」が本当に攻め入ろうとしているのではないか? という不穏な空気が流れること。これは軍が反感を生むきっかけをつくったからというマッチポンプ的な部分もあるのだけれども、それ以前にも「もしかしたら……」という微かな可能性が疑心暗鬼を生むあたりにある。そもそも帝国というのはある時期に生まれた力の集まりに過ぎないのかもしれない。その境目は常に相容れないものと接している。だから何かが起こる危険性は中央よりも多く、いかなる時でも未知なる可能性をはらんでいると言えるのかもしれず、クッツェーはドキドキハラハラ要素としてそこら辺も話に加えていくわけです。タイトル「○○を待ちながら」とすれば、ベケットの「ゴトーを待ちながら」を連想する方も多いと思いますが、まさに「夷荻は来るか? 来ないのか?」 といういつまでも解決しない問いだけがそこには残され――、読み手はわけの解らないまま、その得体の知れないものにヤキモキさせられることになる。

 

正義は正義であるだけで保たれるのか?

構図として今作は「私」「軍」「民衆」「夷荻」に分類される。どれが・どれと・どう関係していくのかは、だいたい想像どおり(だと思われる)なので詳しくは書きません。
ただ、このなかでもっとも異彩を放つのが「私」であることは間違いない。というのも今作における「私」という存在が純粋に「正義」の側にいるわけではないあたりが今作をおかしな方向へと進めていく。
「私」は軍による一連の拷問のあと、その仕打ちによって目が見えなくなった夷荻の娘を自分の屋敷へと連れてくる。何の為か? 最初は憐れみの気持ちや、如何ともしがたい思いが「私」を行動に移させたわけなんだけど……、ただ「私」は次第に娘の魅力の虜になっていく。汚れた娘の体を洗い、動けない娘を介抱するうちに「私」は娘の体をもてあそび始める。そして娘は「私」を受け入れる。しかしそれは愛によるものではなく、娘の置かれた境遇から――、「私」から情をかけられた娘は、その思いに応えるために自らの身をささげていくのです。
当初は軍による横暴に対する正義の訴え――、のはずだったのに、そこに個人のエロスが加わるという面白さ。クッツェーがやろうとしているのは「戦争がどうこう、倫理がどうこう、政治がどうこう」という善悪の価値観を越えてくる。

これはもっと根源的なところに手を突っ込もうという目論見なのだと思われる。誰でも口では「これが正義だ」とは言える。この話を読んだときに「軍側」が酷い――、間違っている! そんなのは絶対にいけないことだ! ということは言えると思う。しかし「民衆」はそう思いながらも行動はしなかった。「軍」の力の前に屈することしか出来なかった――、いや、違うのかな……、夷荻というどこか遠い存在に「民衆」は無関心だったのかもしれません。
「私」は当初は民政官という立場から「正義」を訴えた。内心では事なかれでそれまでどおりに平穏に過ごせればよいと思っていたのである。しかしその「正義」に「私」を縛りつけたのは「肉欲」だった。娘との肉体の繋がりが「私」の精神に変化をもたらしていく。もっと人間的な体の底の方から湧き上がってくるエネルギーが最終的な「私」の行動原理になった。「私」は初老とはいえ肉体は老い活力を失くしていた――、それが娘との繋がりのなかでよみがえってくる。それが精神にもたらしたものは何だったのか? 「正義」を訴えつづけることが出来たのは「私」にとって、それが「生きる意義」と直結したからなのかもしれません。あふれ出る喜び、もう一度と望む「私」の肉欲が「私」を前へと進ませ続けた……
そんなのは正義じゃないと言う人はいるのかもしれない。どうでしょうか? 「正義」とはただ正義であるだけで力を保つことが出来るのでしょうか? もし今作がエロスではなく「愛」を正義の伴走としたならば案外すんなり受け入れられると思う。ただし今作がどうしようもなく面白いのは初老のエロスが正義を伴ったことにある。

 

夷狄を待ちながら (集英社文庫)

夷狄を待ちながら (集英社文庫)