本棚のすき間でつかまえて

本の感想をばかりを書いているブログです。

ホーソーン「緋文字」 翻訳:八木敏雄

とあるモチーフがある話

古典を読むことの面白さは、時代がかわっても変わらない人間の普遍的な何かに気がつかされるあたりだと思います。今作、出版されたのが1850年ですが――、著者ホーソーンが描いたのは1650年ころのアメリカについて。1650年頃(17世紀半ば)と言えばイギリスからの入植者達がアメリカに根をおろしてから50年程度が経過したころの話になります。
今作の構成ですが――、まず現在(19世紀)からスタートして過去(17世紀)を振り返り、また現在(19世紀)に戻ってくるという流れです。というのも冒頭で著者であるホーソーンが、勤めていた税関の二階でホコリを被った「緋文字」の記録を見つけてしまうところから物語は始まります――、ホーソーンには作家となる以前に税関で働いていたという事実があり、この話がまるで自身の経験にもとづくものだと言わんばかりの展開で話は始まるのです。もちろんこれには意味があり――、実は今作は1693年に起こった「セイラムの魔女裁判(200人近い村人が魔女として告発され、25名が亡くなっている)」をモチーフにして、著者はこのフィクションを作りあげているのです。この小説を通してあの事件を起こしたのは何が原因だったのか問いなおす意味があるのだと思われます。というのもホーソーンの先祖には敬虔な清教徒として歴史に名を残すような人物がいたようで、その血を受け継いでいる著者だからこそ今作を書いたのではないかと考えられます。

 

胸に緋色の「A」の字を飾った女

タイトル「緋文字」とは――、金の刺繍に縁取られた緋色の「A」の文字です。
赤ん坊を抱えたヘスター・プリンの胸に貼りつけられた「A」の文字。彼女は姦通の罪によってさらし台の上で見世物にされている。この時期(17世紀半ば)の清教徒の文化では姦通は死をもってあがなわなければならなかった。ただしこの時、ヘスターの夫は死んでいるとの報告があった。だからそこまでの必要はないとされ、三時間のあいだ人々にさらされ辱めを受けること――、そして生涯に渡り「緋文字」を胸につけることを約束されヘスターの罪は許された(ただし許されたとは言え「A」の文字をつけている以上、どこに行っても指をさされ笑い者にされることは目に見えていた)。
人々の興味は相手が誰か? ということだった。しかしヘスターの口は固かった。何があっても言うことは出来ないと、ヘスターは頑なに相手を告げることを拒みつづける。相手の立場を考慮してヘスターは一人でその罪を被ろうとした……
しかし、ひとりの男が冷ややかな目でこの刑罰の様子を眺めていた。老医師チリングワース――、実は彼こそが死んだとされているヘスターの夫である(補足:ヘスターは彼より先に渡米している。チリングワースは仕事の関係上遅れてアメリカにやってくる予定になっていた。そして今まさにこの地にやってきたところなのである)。
その後ヘスターが独りになったところを見計らってチリングワースは彼女の目の前に姿を現した――、彼は言う「私が夫だということを誰にも言うな! お前の浮気相手が誰なのか必ずつきとめてやる」と。
チリングワースはすぐに町の人々に認められることになった。この時期、医師という職業はそれだけで尊敬に値したのかもしれない。チリングワースはこの町の牧師と一緒に住むこととなり、病弱な牧師の面倒を任されることになるのです……

 

登場人物の役割

勘のいい方ならお気づきかもしれませんが、姦通の相手とはこの病弱な牧師です。ただし、へスターとどういう経緯で不倫に陥ったのかはよく解りません。燃えるような恋が芽生えたとか、どうしようもなく互いが惹かれあったとか――、そんなエピソードはないんです。
なので読んでいる最中には「悪いのはヘスターと牧師ではないか」「チリングワースこそ被害者ではないか」と思ってしまいます。しかしその後のヘスターのつつしみ深さ、遠慮ぶかく控え目な態度、自分が蔑まれているにも関わらず弱きものを助けようとする姿、それからひたすらに耐えている姿を見ていると、彼女は悪人とは思えない……
一方、チリングワースはと言うと――、ヘビのようにねちっこく、人の不幸をもてあそび、自分が切り札をもっていることで優越感を味わっている人物――、俺が曝露してしまえばすべてが元の木阿弥だとばかりにヘスターを脅すんです。ヘスターとの間に何があったのか? チリングワースはどのような夫だったのか? それらも今作では語られません。ただ描写としてあるのはヘスターは「チリングワースに騙された」という意識を持っていること。過去は詳しくは解りませんがアメリカに来てからのチリングワースを見ていると確かにコイツは嫌な奴なんだろうなぁという感じです。
次に牧師はというと、これまた絶妙な人物です。彼は弱い。体も弱ければ精神的にも弱い。しかし敬虔であることに懸けては誰にも引けをとらなかった。牧神の神に対する真摯な態度は人々に認められていた。皮肉にも病弱さが人々に彼を支持をさせた。人々の目には病弱な体を押して教えを諭す姿が健気に映っていたのだと思う。まあ……、なんとなくつつしみ深いへスターが惹かれたのは解るようなタイプ。これが不倫でなければお似合いの二人と言えるかもしれない(牧師は姦通の罪をへスターひとりになすりつけているではないか! と思われるかもしれませんが、その件に関しては後述します)。
もう一人重要な人物がいます。へスターの娘のパール。牧師との間に生まれた子供です(パール自身は大きくなってからも、その事実を知りません)。パールはへスターの子供ということで斜めに見られた。人々に避けられたり、いじめられたりしながら成長していった。ただしパールには天真爛漫なところがあって、それらを意に介さないところはあった。それにも増してヘスターの愛情がパールをくるんでいたことでパールはパールの基質を損なわずに育っていったのだと思う。ただしパールの鋭い感性はヘスターや牧師の心のなかに抱えている闇を見逃さなかった。口をにごすヘスターや牧師に向かってパールは子供ながらの純粋さで核心をつくようなことを言う――、それが二人を苦しめるという役割を果たしている(後押しをする役割とも言えるし、ハラハラドキドキ要因とも言える)。

 

人は真実を見るのか、それとも

表の世界ではヘスターは責められ苦しみ続ける(その後、さらし者としての人生を歩まされる)。しかしヘスターにはパールという希望いた。だから全てを耐えることができたのだと思います。一方、裏側ではもう一人の罪人である牧師が苦しみ続けている。牧師はヘスターのおかげでさらし者にされることは免れたわけですが、その事実が彼の精神を苛み続ける。ヘスターが責められるほどに、良心の呵責を感じることとなる。自らの過ちをひとりの女性に押しつけている事実――、自分の弱さというものを否が応でも見せつけられることになる。さらには牧師という職業が彼を苦しめた。自分の罪を認めることすら出来ないと言うのに、人々には懺悔を促さなければならなかった。そして影で牧師を苦しめる原因がもうひとつある――、チリングワース。病弱の自分の面倒を見ている医師はすべてを知っている(牧師はそのことを知らない)。牧師は何故だか分からないまま冷酷な視線を浴び続けているのです。
どちらが本当の不幸か……、それは分かりませんが、ヘスターは強く牧師は人として弱かったということは言えるかもしれない。というのも牧師は次第に耐えられなくなっていく。耐えられなくなりすべてを白日のもとにさらすことを望み始める。ヘスターのように希望(パール)がない牧師には、それが希望になるのでは? という思いに捉われる。そして後日、運命の日(牧師の懺悔の日)を向かえることになる。
この作品の凄さは牧師の懺悔というだけでは終わらない(ただし牧師は明確にヘスターの相手が自分であるとは言わなかった。自分は罪人であるという含みを民衆に伝えたに過ぎない。そして倒れていった)。牧師は確かにその瞬間、恍惚とし何かから解放されたのかもしれない――、ただしここで著者が描くのは一個人の物語ではない。視点は大きく引いていき今度は民衆の目線に変わっていく。人々は牧師の懺悔をどう見たのか? その瞬間、牧師の胸に「A」の文字が見えたという人達がいた。「A」の文字などなくまっさらな肉体だったという人達がいた。人を救うことが使命の牧師故にヘスターの替わりに罪を背負おうとしたのだと解釈する人達がいた。
人々は何が真実かも解らずに、それぞれのなかで捉えて牧師を解釈した。人々はさもそれが正解であるかのように語りはじめた。人々は自分を納得させるために答えを見つけたがる。人々にとっては真実が必要なのではなく、真実らしくあればそれでよいのである。勝手なもので人々は真実よりも何かのドラマを求めたのかもしれない。
何故、著者が「セイラムの魔女裁判」をモチーフに今作を描いたのか――、その理由はここら辺にあるような気がします。人間はみな自分の見たいものしか見ようとしないと言いますが、それ故に起こる悲劇があるのかもしれません。人々がヘスターの咎として与えたはずの緋色の文字ですら、その時々で意味をかえてしまうのですから。

 

完訳 緋文字 (岩波文庫)

完訳 緋文字 (岩波文庫)

 

 

イタロ・カルヴィーノ「レ・コスミコミケ」 翻訳:米川良夫

12編からなる短編集。短編の感想はどう書いたらよいものか……
律儀に一遍を読み終えるたびに感想を書いていたら、ずいぶんとボリュームのあるものになってしまった(それでいて1編あたりの書き込みは少ないので内容は中途半端)。短編の感想をどう書くのかは今後の課題とします。とりあえず1編1編で感想を書きましたのでアップします。


【月の距離】
これは主人公Qfwfq老人が語る昔話のひとつです。その昔、月と地球の距離がとても近かったころの話。それも一番近づくときには月の引力によって海が満ちて盛り上がり、手を伸ばせば届きそうなくらいにまでに……、と書くと比喩? と思われそうですが、そうではなく、リアルに手が届く位置まで互いの星は近づくのです。
海面は月に引き寄せられて盛り上がるので、船に乗って脚立を伸ばして引力の境目を超えてしまえば月に降り立つことが出来る。そして振り返ると中空はまるで無重力であるかのように地球から引っ張られた魚や海藻やらが浮かんでいる。海面からぶどうの房のようにぶら下がっている船と人間の姿を見ることが出来るという、なんとも幻想的な描かれ方をします。
そんな舞台で語られるのは若かりし頃のQfwfq、彼の従兄、船長、船長夫人をめぐる恋物語。みんなは船に乗り、満潮の日に月に降りて仕事をして戻ってくるのですが――、ふたつの星は自転と公転を続けるゆえにやがて離れていくのです。恋心と思惑が月と地球のあいだを行き交って、それらの物語はやがて離れていくふたつの星の運命と重なりあい、今なお続く話として終わっていく。
幻想的というか、一作目からカルヴィーノのイマジネーションの世界に一気に惹きこまれる話になっています。頭のなかで想像したものを魅力的な作品として作り上げることの出来る才能に感服します。


【星の誕生】
今回、Qfwfqが語るのは自分が星雲の円盤の上にいた頃の話です。星雲の円盤とは太陽系が出来あがる前に宇宙空間に漂っていたもやもやとしたガス状態の集合のこと……、ここではQfwfqは人間ですらない。では何?と聞かれても困ってしまうのですが。元素か原子かあるいは何かの塊か……、とにかく宇宙を彷徨う何かが擬人化されたものなんです。そしてQfwfqには家族がいて従兄弟がいて互いに会話をしていたりする。
これは太陽系が出来あがる過程をその場所にいた者たちが語るというもの。暗闇しかなかった空間にやがて太陽が生まれ、暗闇ははじめて光と対となることが出来たという話だったり、ドロドロだった地球がやがてその上に立つことのできる塊となっていったという話があったりする。そして現在に至るということなのだと思われます。
ちなみに今作は全部で12編ありますが全編とおしてQfwfqという存在は共通します。Qfefqとは何なんでしょうか? カルヴィーノはここにも解けない謎を残していくわけです。


【宇宙のしるし】
この話ではQfwfqは銀河の端っこのあたりを回っています。宇宙空間を漂っているということです。3編目もこんな感じですからQfwfqが誰かなんてことには、たいした意味もないように思えてきます。宇宙が出来あがった当時からそこにある何かというくらいの解釈が丁度いいのかも……。まあ、我々の体は星の欠片からできているなんて言われますから、Qfwfqは部分でもありそのものでもあるということなんでしょう。
Qfwfqは銀河を回っています(一周2億年)。そこで一周したときが分かるようにしるしをつけようとするわけです。しかしその時の宇宙にはしるしとなるモノなんて何もない、それでも何かをしるしとしようとするんです。ここが面白いんですけど……、そもそも「しるし」とは何か? 周りと比べたときに違があって成り立つもの。そこでQfwfqはとにかく何かの違いをつくったんです(それが何かは解りません)。しかし回っている間にQfwfqはどんなしるしだったかを悩むことになる。しるしとは何か……、何でも相対的にしか把握されない世の中の面白さ。わけが解らないのに妙に伝わってくる感じがたまりません。


【ただ一点に】
宇宙の初期にはすべてのエネルギーが一点に集まっていたと言われている。今回のQwfwqの話はその一点に自分がいた頃の話。すべてが一点にあった。それはぎゅうぎゅう詰めなのではなく、重なっていたのだとQfwfqは語る。いろいろな奴がいて――、嫌な奴もいれば、誰もが好きになってしまう人(人?)もいたと言う。しかもその人はみんなにスパゲティを作ってあげたいと言ってくれたとQwfwqは語る。しかしそこには残念ながら空間がなかったのです。
舞台は変わってQfwfqが人間となり生活を送っていた時の話。ある時にただ一点にいた時の知人に偶然にも出会うことができた。思わず昔話を語り始める2人。あのスパゲティを作ってくれると言った人(人?)はどこへ行ったのか?としみじみする。それもそのはずで、ただ一点はビックバンで弾けてしまい一瞬にしてみんなは散り散りになってしまい出会うことなんておそらくないのですから。
あらすじで書くとわけが解らない。でも読むと不思議とグッとくる。カルヴィーノの巧さは読者に連想させることなのだと思う。無機質なモノの物語は、いつのまにか自分(読者)の経験に置き換わっている。あの瞬間の自分の気持ちに近いのかもしれないと連想してしまう。いや、させられてしまうのです。


【無色の世界】
これは地球に海や空気が出来る前の話です。その頃の地球は月のように岩や砂でできた灰色だけの無色の世界だった。大地に立てばすぐそこは宇宙の闇。昼と夜はあるものの太陽に照らされた灰色の大地を見るか、夜になった暗闇を見るかの違いがあるだけだった。Qfwfqはそこでアイルという女性に出会う。Qfwfqはコミュニケーションを取りたいものの空気がないために声は伝わらず(振動する媒体がないので伝達しない)ジェスチャーで意志の疎通をするしかなかった。ある時に光るものを見つけてQfwfwqは「美しい」と彼女に伝えた。しかし彼女は「否」と返す。Qfwfqが色鮮やかな世界を憧れているのに対して、彼女にとっては無色の世界こそが絶対的な美だったのである。
やがて地球には変化が起こりはじめて海ができ、緑が生まれた、大地は色とりどりのものたちで満たされていきQfwfwqはその美しさに目を奪われるばかりだった。アイルはそれを嫌い地中に潜ってしまうが、感動を共有したいQfwfwqは嘘をつき彼女を地上に連れてこようとする…… さていかに、という話。
5編目までくると何が語られても驚くことはありません。ただただカルヴィーノの想像力の豊さに圧倒されるばかり。気になることと言えば、この短編集が宇宙の成り立ちの順番になっていないこと。何かの意図があるのかどうか?


【終わりのないゲーム】
これは宇宙の膨張についての話。宇宙の膨張にともなって密度は薄まっていくはずだけど、ここに書かれている理論で言えば、二億五千万年ごとに四十立法センチメートルのなかに水素原子が一個生まれれば、その濃度は保たれるらしい(なんのことだかよく解らないけれど……)。
この短編のモチーフはそれ。QfwfqはPfwfpという友達とアトムを競争させるゲームをしている。遊んでいるうちにアトムは無くなっていくらしく、なくなれば新しいアトムを見つけてこなければならなかった。しかし時が経つにつれてアトムは見つからなくなっていく。それなのにPfwfpはたくさんアトムを持っていて、オカシイと思ったQfwfqが調べてみるとそこにQfwfqのズルを見つけてしまう。頭にきたQfwfqは自分もズルをやり始めるのだけど、それによってこのゲームは終わりのないものになっていく……という話。
描かれているのはモチーフそのものといった感じ。他の作品ではモチーフに何かがプラスαされ厚みが生まれていたが、今作に関しては[終わりが無い・膨張・繰り返す]というあたりを描き、物語としては淡白。僕個人としては動かされる感情はなかった。むしろ冒頭で書いた宇宙の仕組みの方に漠然とした感動を覚えた。


【水辺に住む叔父】
生物の進化をモチーフにした話です。水のなかで生まれた生物がゆくゆくは陸地へと上がっていき、そこを棲みかにしていくわけですが……、主人公であるQfwfqはこの時、その中間あたり(両生類)をやっています。Qfwfqは陸地を自由に動き回っている生物に憧れています。Qfwfqは陸地を棲みかにする生物になりたいわけです。しかし一族のなかの叔父だけは断固として水のなかから離れることを認めません(叔父だけは水のなかにずっといます)。だから一族はいまだに両生類という中途半端な生物をやっているわけです。
ある時QfwfqはLIIという生物に恋をします。LIIは陸地を自由に動き回っています。Qfwfqの恋はみのり二人のつき合いがはじまります。しばらくした後にQfwfqは叔父にILLを紹介することになります。叔父のことを恥ずかしく思うQfwfq。しかし叔父は堂々としています。ILLに水のなかで生きることの意味を熱く語りだすのです。さて、その後はいかに……という話。
抜群に面白いです。進化には長い年月がかかるはずですが、そんなのはおかまいなしです。それぞれの進化の道のりはキャラクター達の意志(考え方)として語られます。進化は生き様だという感じです。この話のオチは発想の転換――、当たり前としていた価値観をひっくり返してくれます。良い悪いは別にして何かの気づきのようなものがあります。


【なにを賭ける?】
これは物理学でいうところの決定論を扱っている作品なのだと思います(エネルギーやら原子やらの関係性によって動き出したものの未来は、何もかもが詞でに決まっているという……)。ここでのQfwfwqは何者なのかは解りません。ただ宇宙の誕生時から存在している何かという存在です。Qfwfwqは部長と呼ばれるもう一人と賭けをします。Qfwfwqが計算して予測をして、それが実際にそれが起こるかどうか?と部長に賭けをしかけるわけです。宇宙誕生時から現在に至るまでの予測ですから、銀河が出来るか?とか、どの星に大気が出来るか?とか、最終的にはどっちのサッカーチームが勝か?とか。未来を予測するという行為はどこを切り取っても成り立ってしまうから、対象は何でもいいというのがこの話の面白いところです。だって銀河の成り立ちからサッカーの勝敗までが同じテーブルに乗るんですから。これにはどんな時でも賭けが好きだと言う揶揄があると思うし、決定論という身も蓋もない理論を笑い飛ばしてしまう感じもある。いや、どうだろう……もしこの世が決定論だとしたならば、誰もがその法則を見つけたいと思うはずだから、こういう賭けは必然と言えるのかもしれない。宇宙の構造(成り立ち)と人のもっている衝動(勝負心)がありえない次元で組み合わさっている作品なのかもしれません。


【恐竜族】
タイトル通り恐竜をあつかっている話。ただし恐竜絶滅後の世界において、ある意味恐竜が伝説となってしまった世界を描きます(まさに現在と言えるかもしれない。ただし人間らしきものは出てきません)。この世界には新しい種族が生活を送っていて、彼らは恐竜がどんな存在だったのかを想像して伝説化していきます。そこに本当の恐竜の生き残りが現れるのですが(それこそが主人公)、しかし新しい種族はそいつが恐竜がどうかが解らない。勝手に空想して勝手に神聖化したり、限りない恐怖の対象にしているせいで目の前に本当の恐竜がいることに気が付かない……という話です。
これも面白い。今現在において恐竜はあれこれ研究され実態に近いものが見えてきているのでしょうが、ただ太古に地球を支配していた生物としてのロマン……、虚飾に彩られた恐竜ブランドが出来あがってしまっているような気がします。そこら辺の感覚をチクリと揶揄するような滑稽さがある話だと思います。
ちなみに今作Qfwfqが出てきません。何故か? Qfwfwqという存在がますます不思議に思えてきます。


【光と月日】
ある時に1億光年離れた星に「見タゾ!」と書かれたプラカードを見つけて焦りを覚える主人公(この主人公はQfwfqなのかどうかは解りません)。1億光年離れた星ということは折り返しで2億年前の出来ごとに対して書いてきているのである。そこで2億年前のその日の出来事を振り返る主人公。はて、どう返事をしたものか……。
宇宙は膨張しているから星と星との距離は、この瞬間にも離れている。2億年で届いた光は今では3億年も4億年もかかることになるだろう。それどころかやがて膨張スピードは加速していて、星によっては光速を超える速さで離れている。ということはその内連絡も取れなくなり弁解の余地がなくなってしまう。
そうこうしている内に他の星からもプラカードを見つける主人公。距離が違えば光が届く時間にも違いがある。主人公の行動は反射して光となってこの瞬間にもどこか遠くへと広がっているのである。
発想の転換ですね……。地球では宇宙を観測して過去の星の姿を眺めているわけですが、同様に我々も見られているとも言える(見る人がいれば、だけど)。この話はそれを逆手にとって宇宙規模の出来ごとを人間規模の出来ごとに置き換え面白可笑しく語っている。我々が何かの失敗をしでかした時に、その情報は宇宙規模でどこまでも広がっていくという不思議さを示している。


【渦を巻く】
美しい生き物は美しくなろうとしたわけではない。結果、美しい……それだけのことである。簡単な組み合わせの繰り返しが思いもよらない造形美を生み出したりする。これはそんな意思なきところに生まれた美をモチーフにした恋物語
ただし恋と言っても軟体生物の恋である。目を持たない軟体生物たちは触れる感覚(岩やら水やら、そこに含まれる生物やら)によって世界のことを知っていた。ある時に異性(いや、異性とも言い切れない何故か惹かれる生物)がいることに気がついてしまう。軟体生物はそれを確かめるために目を求めていた。それは恋を成就させるための切実な願いだった。軟体生物が作り出したのは渦だった――、そして渦はゆくゆく殻となった。目は作られなかった。ただし他の生物にはその美しさを観察されることになった。目を持ちたいという願いが、見られるものに代わってしまう。その皮肉が滑稽で、少し呆れるような展開だけれども何故だか哀しい。おそらく生物の進化にはそんな無駄があるからこそ魅力的なのだと思う。どこかで偶然に支配されているように思えるから生そのものが頼りない。


とても面白かったけれども、奇抜な話がつづくので最後の方は少しダレてしまった。一気に読むよりは何かの合間合間に読むぐらいが想像力が刺激されて丁度いいのかもしれません。

  

レ・コスミコミケ (ハヤカワepi文庫)

レ・コスミコミケ (ハヤカワepi文庫)

 

 

アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」 翻訳:福田恆存

とある老人の尊厳の物語

再読です。僕の心のなかにある「いつか読み直したいリスト」の上位にあった今作――、ヘミングウェイと言えば、まっさきに思い浮かぶ今作。人気作家故にいろいろと揶揄されるヘミングウェイですが――、しかしヘミングウェイという名前はもはやアメリカ文学の古典として揺るぎない地位を占め、読んでみればそのふところの広さを味わうことが出来る、まさにアメリカらしいアメリカ文学

あらためて読んでみての感想ですが、これは尊厳の物語なのだと思いました。八十五日間漁に出て、何も獲ることが出来なかった老人は、腕が衰えもはや漁師としては終わりを向かえたかのように見られていた。これまでずっと老人に付き従っていた少年は、両親の手前、これ以上老人一緒に漁に出ることは出来なくなり(魚を獲れなくて生計を立てられないから)――、この頃、違う舟に乗るようになった。
少年からは「今度魚を獲ってきてあげる」と心配されるようになり、老人はその好意を受けつつも、まだ漁を諦めたわけではない。そして再び漁に出た老人は、遠く沖へと出た。
その日、餌に食いついてきたのは、これまでに出会ったことのない大きなマカジキ――、誰もが驚く、老人の舟よりも大きなマカジキだった。マカジキと老人との戦いは四日間に渡った。マカジキによってさらに沖へと引っ張られることになったが、なんとか老人は戦いの末マカジキを仕留めることが出来た。しかし今度は港へを戻るために舟を走らせていると、鮫が群がってきてマカジキはどんどんと食われていく。ヘトヘトになりながら鮫との戦いを繰り返す老人だが、ようやく港についた頃にはマカジキは骨だけになっていた――、やっとの思いで家に帰ってきた老人は疲れ切った体を横たえた。そして眠りについた老人はライオンの夢を見るのです。

 

まだやれると確信した瞬間

今作、老人の夢のなかでライオンが三回も出てくるのですが、これはシンプルに老人自身がライオンなのだ――、を現しているのだと思う。周りでは老人は漁師としてもう終わったと思っている。しかし、老人はまだ向上心を持っている。体力もなくなり食も細くなり、なにかと少年に心配される老人だけれども、ただ老人の誇りは地に落ちかけながらも、未だ羽ばたくことを求めている。
老人はある意味、自分でも自分自身を疑いながら漁に出る。まだ出来るのか?いや出来るさ、と自問自答を繰り返しながら舟を沖へと走らせる。そもそもこの話、ほとんどのシーンは「老人が一人舟の上にいる」なので、対話の相手はおのずと己となる。ここに来て、これまでに釣りあげたことのないほどの大魚――、その思いがけない相手を前にして、これまでの老人の生と、これからの生に対して問いを繰り返すのである。つまり老人は人生の終盤を向かえているわけですが、その生き方がどうだったのかを一匹の大魚を通じて表現されるというつくり。
マカジキに対しておまえは俺だと言い、俺がおまえを殺してやると言う。これほどの見事な魚を殺める資格が自分にはあるのか?と問い、その答えのない問いをつぶやき続ける。戦いは四日間にも渡って、手から血を流し、疲労で精神は朦朧とし、とにかく限界と言えるところまで老人は追い詰められる。それでもどこかで冷静さを保ちながら、自身の生の集大成――、あるいは矜持、それこそ信じてくれている少年にまだやれることを示す為に戦い続ける。そして老人は最後に勝利を得る。まだやれることを確信した瞬間――、喜びに満ちあふれた瞬間がやってくる。しかし帰路、マカジキは鮫に喰い尽くされて港につくころには骨だけになってしまう。人生の良い時は続かない――、と老人は嘆くわけです。

 

ただ前へと歩み続けるしかない

人生の不条理をあらわした作品、と言われる今作――、確かにそういう一面はあるんだと思います。しかしそれだけではないと僕は思う。この老人の場合、物質的に何を得るかよりも、精神的に何を得たかのほうが大きいと僕は思う。経験の豊富な老人にとって、つかの間の喜びに終わったという事実は、人生の世知辛さをあらためて認識したに過ぎないのではないのか。
もし何かがあるとすれば少年に希望を示せなかった歯がゆさであり、一緒に祝杯をあげる機会を失った心残りでしょう。それよりも、まだやれるのかもしれないという手ごたえがあったからこそ、老人は打ちのめされてなおライオンの夢を見ているのだと思う。何度叩きのめされても前進し続けるしかない――、良い時ばかりは続かない、という当たり前さに対して何の疑問もはさむことなくそのまま受け止めることにこそ、生きる力が生まれるのかもしれない。人生はただ前に向かって歩み続けるしかない、それしかないんだ、と言われているように僕には思えた。

  

老人と海 (新潮文庫)

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