オルハン・パムク「わたしの名は赤」 翻訳:宮下遼
- 作者: オルハンパムク,Orhan Pamuk,宮下遼
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/01/25
- メディア: 新書
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異国情緒あるれる文学
著者、オルハン・パムクはトルコ人作家です。2006年にノーベル賞を受賞しています(トルコ人初)。今作はフランスで最優秀海外文学賞、その他アイルランド、イタリアで文学賞を受賞しているようです。
今作の舞台となるのは16世紀末のイスタンブール。皇帝の命令により秘密裏に細密画が描かれることとなった。しかしその画に関わった一人の画家が殺されてしまう。どうやら原因はその細密画(命令内容)にあるらしい。いったい何が原因なのか? ひとつの絵画を通して当時のイスラム社会の風土、そしてそこに生きた人々が感じたであろう苦悩が伝わってくる作品――
スケールが大きくてとても読み応えのある作品です。なによりも我々日本人にとってはまったくの異文化――16世紀のイスラム世界。描写からもどこか魅惑的な雰囲気が漂ってきます。
細密画と言ってイメージ出来ますでしょうか? 今作の装丁がまさにそれなんですが、西洋の立体感をともなうものと違ってとても平面的。目で捉えるものをそのまま描くのではなく、そのものの本質を描くことを目的としているんです。
偶像崇拝が許されないイスラム。そもそも画家なるもののスタンスは世間からは懐疑的に捉えられ(認められてはいない)高い身分ではない――、故に実験的な画法が生まれるような下地はどこにもないのです。西洋の写実的な画はイスラムでは異端であり、許されるものではなかった。だから細密画家たちは従来とおりの技術を継承し、その技法をつきつめることに情熱を燃やしていた。
米粒に画を描くなど、細密さを求めるあまり晩年には盲目となる画家も多かった。そして盲目となることは一流の画家としての名誉だった(年老いて目が見える画家は馬鹿にされることもあり、盲目を演じる者もいたらしい)。盲目となったならば、それまでに焼き付けた頭のなかの像によって、さらに純粋に描けるものと信じられていた。
文化の過渡期……その無常さとは
この作品は「わたしの名は○○」と章立てされて区切られ、その都度語り手が変わっていく。ちなみにタイトル「わたしの名は赤」の語り手は「色」――、赤色が話を語り出すのです。他にも死人が語り、一本の木が語りだしと、とてもバラエティに富んでいる。
主要人物は名人と呼ばれる細密画家たち、それから画家の頭領、画家をとりまとめる叔父、その娘、娘に恋こがれる若者などなどなど……、順繰り語り手が変わっていき事件の全容が見えていくるというつくり。
しかし今作ミステリーであってミステリーではない。殺人という事実で話を引っ張っていくけれども、実際に著者が描きたかったのは細密画という文化の過渡期なのだと思います。どれだけ素晴らしい文化だったとしてもいずれ廃れていく――、時が流れ歴史は移ろいひとつの文化はやがて綻び、ゆくゆく埋もれていく――そんな無常さを表しているのだと思われます。
(日本人は浮世絵がイメージとして近い。いつの間にか主流となった写実的な画。その一方で廃れていった浮世絵の過渡期とはなんだったのか? 今でこそ伝統だ文化だ言われるけれども、転換期にぶつかった絵師の苦悩はどのようなものだったのでしょう?)
今作でも西洋の遠近法に惹かれながらも、宗教や文化の違いから手を出すことの出来ない画師たちの苦悩が描かれる。
どれだけ技術が高まりを見せたとしてもひとつの手法には寿命がある。各地で多くの芸術が生まれ、やがて消えていく。当人たちはそうとは知らずに流れのなかでその瞬間を必死に生きる。将来など考えることもなく一身に取り組んだ芸術だけが時を越えて次の時代のなかで遺産と呼ばれ引き継がれていくのでしょう。儚いと言えば、儚い。ただそのなかで時代を超えて残る芸術にはロマンを感じてしまいます。
今作、ミステリとしての惹きつけかたもよかったけれども、それ以上に大きな流れに翻弄された人達の群像劇として読むとしみじみしてしまう。そこには今と同じような感情をもつ人々が生活を送り、今に語り継がれる文化を築いていた。遠い歴史の記憶から、こんな話を書きあげてしまう著者の力には圧倒されてしまいます。
著者はノーベル賞作家ですが敷居は高くありません(ちょっと根気はいりますが)。エンターテイメントです。それも比類なきエンターテイメント。とにかく面白い。
- 作者: オルハンパムク,Orhan Pamuk,宮下遼
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/01/25
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トマス・ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」 翻訳:志村正雄
難解と言われるピンチョン。何が解らなかったのか?
2回読みました。それでもしっかりと把握出来た感じはしない。ピンチョンと言えば難解と言われますが、今作はそのなかで一番簡単な作品のようなんです。だけどやっぱり難しい……、たぶん噛みしめながら読んでいけば解るのだとは思います。ただ読者を手こずらせるのは次々と切り替わっていく展開や、何かを暗喩しているのかと思わせるモチーフの数々。思わせぶりな感じ――、このワードが出てきたことにどんな意味があるのか? と深読みしたくなる感じはある(いや、実際に意味があるから奥深い)。
描写は限りなく必要最低限。だから主人公の心の機微がどっち側にあるのかがその瞬間には解らない。読み進めて振り返ってようやく、さっきのあれは……と確認が出来る。僕は2回読んだから「ここでの描写はそういう感情の現れなのか」が理解できた。これを一読して解る人は相当だと思う。とまあ不親切と言えば不親切な描写ではあるけれども、これがゆえに作品には不穏な空気が漂っている。解らなさ具合が読者を悩ますが、その混沌とするこちらの感情を含めて作品は成り立っているように思える。これを狙ってやっている(読者に得も言えない苦々しさを味あわせる)ようだから、やはり凄いのだと思う。
簡単なあらすじ――
ある時にエディパ(主人公・女性)は昔に付合っていた大富豪ピアス・インヴェラリテが亡くなったことを知る。不可解なのはエディパが遺産管理執行人に指名されていることだった。大富豪の謎めいた遺産。結婚して普通の生活を送っているエディパにとっては関係ないことだったが……、しかし彼女は依頼を受けることになる。そして一度足を踏み入れてしまったが最後、奇妙な世界に引きずり込まれることになる。
エディパは遺産を調べていくなかで見つけたのは偽造切手――、そしてピアスの所有している会社には国の郵便事業とは違うルートを持つピーター・ピングィッド協会という社内組織があることを知った。
「トライステロ」という謎の名前。いたずら書きのように見つかる消音機つきの喇叭のマーク。「WARST」と書かれた謎の文字。それらが意味するものはいったい何なのか。誰に聞いても確かなことは解らない。それなのに目を凝らすとエディパの生活の周りにも、不気味にも忍び込んでいるそれらの印を見つけてしまうのである。
やがて見えてきたのはローマ帝国時代から続く私設郵便事業がもたらした権力抗争の数々。テュールン・タクシス家に反対したトライステロという私設組織のマークが喇叭のマークだったのである。ヨーロッパでの争いで窮地に追い込まれたトライステロは、アメリカに渡って今なお地下での活動を続けているのか? という感じ。
妄想と現実の境目とは?
あらすじを書いてみるとSFの要素が強いように思える。それも陰謀論的な世界を裏であやつる秘密結社があるのでは?という――、信じるも信じないもあなた次第です的な不穏さがこの小説にはある。というか、それを狙ってやっているのだと思われる。どの時代でもまことしやかに語られる不可解ながらも魅力のある神秘なシナリオがある。今作で言うと、帝政ローマ時代から続く私設郵便組織「トライステロ」がそれにあたる。
エディパが見つけるのはその断片ばかりだった。しかし断片は確かに存在するのである。それらをつなぎ合わせてエディパが作りあげた想像はどんどんと得体の知れないものになっていく。
現実と虚構の曖昧な境目。完全に「無い」とすることの出来ない悪魔の証明によって残される可能性が、ある時に牙をむいてエディパに襲いかかってくる。
エディパが引きずりこまれたのはそういう世界。真実を知ろうと開いた扉の向こうに新たな扉があることを知ってしまう。知ったが最後。振り払おうにも記憶に刻み込まれてしまった真偽の定まらない影のようなもの――、見えもしない亡霊が迫ってくるかのごとくエディパのなかでは疑心暗鬼の念が強くなってしまう。
この小説の面白さはすべてがパラノイア(偏執病)に捉われてしまうことにある。エディパがどんどんと陥っていくのは妄想と現実との境目は、そのまま世界の現実と虚構という縮図に当てはまる(もちろん抱えている問題は違うのだけど、個人も国もパラノイアに陥る可能性があり、事実陥っているのだと思う)。そもそも確かなものなんてどこにもない。我々が正解として手にするのは確からしいものということでしかない。目に見えるものだけが真実か。表を裏が合わさって始めての真実ではないか。では裏にあるものとはいったい何か。そんな風に考え始めたところからパラノイアの連鎖は始まるのかもしれない。
孤独のなかで何を見るのか?
解注を見ているとグリム童話の「ラプンツェル」やシュルレアリスムの画家レメディオス・バロの作品「大地のマントを刺繍する」がエディパの精神を表しているらしい。
両作共に塔のてっぺんから世界を眺めているという点で共通している。遠くから眺めているだけで地上には降りない。安全なところに身を置いて世間を知っているつもりになっている。
いや、どうだろうか? 出ないのではなく出られない……、なのかもしれない。
世界には多くの人々がいる。しかし我々は他人が何を考えているかを知ることは出来ない。他人に関しては確かなものは決して得られない。ならば独我論的に確信できる自分の精神に頼るしかない。想像を膨らませながら世界との関係に折り合いをつけていくしかない。人間は所詮、孤独なのでしょうね。となれば解釈としては塔とは一人の人間であり、塔のてっぺんにいるのが自分の精神ということも言えるのかもしれない。
これはエディパ個人の物語ではあるが、世界はそう言った得体の知れないものの繋がりで出来ているのだとも言えるのかもしれません。解ってくると(いや、解りきってはいないんだけど)面白かった。ピンチョンは他に「ヴァインランド」という本を積んでいるので、そう遠くない内に挑戦してみようと思います。